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概要編集

スウェーデン国王(1594〜1632)。

三十年戦争で1630年、ドイツに侵攻してプロテスタント側の中心としてアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインなどのカトリック軍と戦った。1632年リュッツェンの戦いにて、近眼すぎて敵に突っ込んで死亡。


スウェーデン王カール9世とクリスティーナ(2代目)の息子。娘は後のスウェーデン女王クリスティーナ。グスタフ2世アドルフの時代からおよそ1世紀の間のスウェーデンは、「バルト帝国時代」と呼称されている。1965年に発行された100クローネ紙幣に肖像が使用されていた。


人物編集

王太子時代にロシア・ツァーリ国の内戦(大動乱)に介入し、1617年にストルボヴァの和約でツァーリ位放棄の代償にイングリア・カレリアなどを獲得。スウェーデンの大国時代はこの頃から始まるという意見が多い。これはオランダが行った軍事改革をスウェーデンが取り入れ、グスタフ2世アドルフによって実践されたことも挙げられる(グスタフ2世アドルフの改革は、むしろ三十年戦争の経過によってもたらされたとも言われている)。


三十年戦争への介入編集

ドイツで三十年戦争が長期化し、新教徒側が苦戦に陥ると、誠実なプロテスタントであったグスタフ=アドルフはその救援を決意した。あえてドイツの内戦に介入した背景には、カトリック勢力によってドイツが統一された場合、同じカトリック国であるポーランドと並んで、スウェーデンにとって大きな脅威になることを恐れたからであった。


グスタフ・アドルフが戦争へ介入したのには、対宗教戦略というだけでなく、ゴート民族に起源を持つからだという説がある。


グスタフ=アドルフは1630年にドイツに侵攻し、自ら新式の銃や大砲をそなえた軍隊を率いて勝ち進んだ。1632年にはカトリック側の有力諸侯バイエルン選帝侯の都ミュンヘンを陥落させ、一転してハプスブルク家の本拠ウィーンに迫った。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は急遽ヴァレンシュタインに再び傭兵部隊の指揮を執らせ、両軍はニュルンベルクの戦いで戦ったが決着がつかず、次いでリュッツェンで対決した。1632年、リュッツェンの戦いではグスタフ=アドルフは自ら騎馬で全軍の先頭に立ち、近視だったために敵に近づきすぎて小銃で射抜かれ戦死した。乱戦の中で国王の死体は死人の山に埋もれてしまったという。戦闘はスウェーデン軍の優勢に終わり、ヴァレンシュタインはプラハに後退したが、スウェーデンも国王を失い、苦境に立つこととなる。

 

スウェーデンは王位を娘のクリスティーナが継承し、名宰相といわれたオクセンシェルナが補佐する体制をとり、さらに10数年の戦闘を経て、クリスティーナの判断で講和に応じ、ウェストファリア条約を締結することとなる。


創作では編集

イサック編集


大航海時代編集

Vで登場。


関連タグ編集

北欧 宗教戦争 三十年戦争 スウェーデン バルト帝国 名君 近眼


表記揺れ編集

グスタフ2世アドルフ


参考編集

  • ウィキペディア
  • 世界史の窓

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