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概要編集

1931年3月にバルエアとアド・アストラ・エアロが経営統合(対等合併)して設立された。

1934年にカーチス・コンドルの導入に合わせる格好で、ヨーロッパの航空会社として初めての女性キャビンアテンダントを採用した。

さらに1935年にはダグラスDC-2を、1937年にはDC-3を導入、以後ダグラス社の機体がフリートの中心になっていく。なお、DC-2については、ヨーロッパの航空会社として初めて導入したものであった。

ただご多分に漏れず第2次世界大戦の影響を受け、多くの路線を運休させざるを得なくなる。どうにか飛ばしていたドイツへの路線に関しても1944年8月限りでの運休を余儀なくされた。


1945年7月末に運行を再開、その約2年後の1947年5月には導入して間もなかったDC-4を使っての大西洋路線を開設した。

1957年には日本路線を開設している。


1960年代から1980年代にかけては慎重で手堅い経営戦略を採っていたことから「空飛ぶ銀行」とまで言われていた。

ところが、1990年代に入ると積極的な経営拡大戦略を開始。1980年にネスレとの合弁事業ではじめたスイスホテル(ちなみに日本では大阪市難波に存在するが開業はスイス航空経営破綻後の2003年)をネスレとの合弁を解消した上で傘下に収めてからは、クロスエアを傘下に収めたり、そのクロスエアにオーストリア航空を交えての合同マイレージサービス「クオリフライヤー」を始めてみたり、さらにはデルタ航空シンガポール航空と共に航空連合「グローバル・エクセレンス」を結成してみたりする。

「グローバル・エクセレンス」そのものは形骸化してしまうが、代わりとばかりに自社の規模拡大ではなく競合他社への出資によるシェア拡大を目的とした「ハンター戦略」を開始。サベナ・ベルギー航空LOTポーランド航空、TAPポルトガル航空などに出資した上で傘下に収めたついでにクオリフライヤーに参加させ、マイレージサービスだったクオリフライヤーを航空連合「クオリフライヤーグループ」へと成長させてその盟主に収まった。


だがこの積極経営戦略がアダとなってしまう。というのもサベナやAOMフランス航空などハンター戦略で傘下に収めた航空会社の多くは経営状態があまり思わしくなく、段々と親会社であるスイス航空そのものの経営も怪しくなっていった。そんな中1998年にスイス航空111便墜落事故が発生、巨額の損害賠償を抱えたうえ、この事故によって信用を一気に失い、結果完全に傾いてしまった。

そんな状況下でなおハンター戦略を推進しようとしたものの、経営陣が更迭されたためそれらは終焉を迎え、以後は経営再建に励むこととなる。しかし、傘下の航空会社からの出資を引き上げたり、スイスホテルをカナダの企業に売却したもののあまり上手くいかなかった。

そしてかの9.11で需要大幅減の大打撃を受け遂に自主再建を断念。銀行主導の下クロスエアへの路線・機材の譲度を行おうとした矢先、クロスエア株の売却資金の振り込み遅れで運航資金が底をついてしまう。こうして2001年10月2日、スイス航空は資金ショートを起こし、全便の運行を停止した。


そのためスイス政府は急遽資金援助を実施し、どうにか運行を再開した。そしてクロスエア改めスイスインターナショナルエアラインズに当初予定通り路線と機材などを譲度し、2002年4月1日、71年の歴史に幕を下ろした。

ちなみに盟主がいなくなったクオリフライヤーグループは崩壊し、加盟航空会社の多くは吸収されるか別の航空連合に加入する道を選んだ。現在では後継会社のスイスインターナショナルエアラインズを始め、多くがスターアライアンスに加盟している。


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スイスインターナショナルエアラインズ

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