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ニュルブルクリンク

にゅるぶくりんく

ドイツ北西部ノルトライン=ヴェストファーレン州・ケルンより南に約60km離れたラインラント=プファルツ州アイフェル地方のニュルブルクにあるサーキットである。
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概説

コースすべて使うと全長25kmもある超ロングコースだが、実際は全長20kmの「ノルトシュライフェ」と呼ばれる北コースと全長5kmのGPコースと呼ばれる南コースの2つに分けられる。タイトル画像では、左下のあたりに少し下へ出っ張って伸びているのが南コースで、片方を単独で使ったり、つなげて使うことも可能なレイアウトになっている。
「ニュル」と略されることも多いが、特に北コースの過酷さは「グリーン・ヘル」(緑の地獄)とも呼ばれるほど定評があり、いまだ北コースのイメージは強い。

モータースポーツの他にも、マラソン大会、自転車レース、ロックイベントのロックアムリングなどが行われている。ここで開催された1964年のF1西ドイツGPでホンダが日本車として初めてF1に出走した。

コースについて

北コース(ノルトシュライフェ)

北コースは豊かな森の中にあるクラシックコースで、古城ニュルブルク城を囲むように建設されている。概要の通り非常に長いコースでかつ設計の古いサーキットのため、下記の特徴がある。
・山間部のため高低差が大きい
・路面状況がよくなく、凸凹道や全開で走るとジャンプする箇所がある
・コース幅やエスケープゾーンが狭い
・にわか雨や濃霧など天候の変化(一部だけ天気が悪い、といったこともざら)
・ブラインドコーナーが多い
・しかもコーナーの数が非常に多い
以上の要素から、1周するだけでもドライバーと車に高い負担をかけるコースのため、世界有数のドライバーズサーキットとして知られる。
かつてはF1ドイツグランプリや、耐久レースのニュルブルクリンク24時間レースの開催地で
あったが、マシンの性能に対してコースが対応できなくなっているため現在の北コースを使った自動車レースはGTカーのレースが主になっている。

レース用途としてはやや現役を退き気味の北コースだが、その広さと過酷さは自動車開発のテストコースとして非常に有用とされ、しばしば自動車メーカーがここへテスト車両を持ち込み、走らせている。
単にテストだけでなく、市販スポーツカーではここを全開で走ったタイムが性能=速さの指標とされるなど「スポーツカー開発の聖地」とされている。しかし、2015年に発生した観客を巻き込んだ死亡事故が発生した対策でコースの一部で速度規制が敷かれているため、今後はこのような北コースのタイムアタックがどのようになるかは不明である。

南コース(GPコース)

新設されたコース。路面の広さ、状態、エスケープゾーンなどが時代に応じたレベルの高いものとなっているためF1DTMなどのビッグレースはこちらで開催される。ニュルブルクリンク24時間レースでは、こちらのピットをそのまま使う形となっている。

歴史

1927-1937


1900年代ドイツでは自動車開発が盛んになっていたが、研究開発やレースのための常設コースは存在しなかった。1904年に国際レースであるゴードン・ベネット・カップがバート・ホンブルクで行われ大成功を収めるなど、モータースポーツ人気が高まったが、公道でのレースによるドライバーや観客の安全性の問題が浮き彫りとなり、独立したサーキットの必要性が叫ばれることとなった。人口が少なく、起伏に富む山岳地帯であるアイフェル地方にサーキットを建設する案が浮上するものの、モータースポーツ人気は急速に低下し、その後第一次世界大戦が勃発することになり、計画は白紙となった。
1920年代はじめ、ADACアイフェル・レンネン(アイフェル・レース)がアイフェル地方で公道を使用して行われていたが、レースを行うには危険で適切な場所ではなかった。アイフェル地方議会の議員であったDr Otto Creutzが、ADACの支持を得て専用のサーキットの建設を提案、アイフェル地方の失業者対策や、自動車会社にテストコースとして提供すること、観光客を呼び込むことも盛り込まれていた。当時ケルン市長だったコンラート・アデナウアーの賛同も得て政府の支援も取り付け1925年より建設が開始された。サーキットデザインはGustav Eichlerの主導により行われた。当時の重要なレースの一つであったタルガ・フローリオのコースを参考にしている。


1927年のニュルブルクリンク
1927年にオープン。コース全長が28.265kmで、コーナー数が174あり、コース幅は平均8mから9mであった。このGesamtstrecke(全コース)以外に、22.8kmの北コース(独:Nordschleife、ノルドシュライフェ )、全長7.7kmの南コース(独:Südschleife、ズュドシュライフェ)、全長2.281kmのZielschleife(別名Betonschleife)という3つのレイアウトで使用された。Start und Ziel(スタート/フィニッシュエリア)は共通となっており、Zielschleifeは主にウォームアップ走行などで使用されていた。
オープンより直ぐにアイフェル・レンネンやドイツグランプリ、世界選手権自転車競技大会を開催。夕方や週末には一方通行の有料道路として一般開放された。
1931年のドイツグランプリより北コースのみを使用して開催するようになった。全長28kmのフルコースを使用した大きなレースは1939年が最後となっており、フルコースの最速タイムはルイ・シロンのブガッティによるものであった。短くより安全な南コースはマイナーイベントや二輪レースで使用された。 当初の名称はNürburg-Ringだったが、1933年にナチスがドイツのモータースポーツ全体に資金援助を行なって改修され、このときに名前からハイフンが取られNürburgringとなった。

1947-1967


第二次世界大戦後、爆撃による損壊を修復し、1950年代になってレースが再開されるようになり、1951年ドイツグランプリがF1世界選手権に組み込まれ、再び北コースが開催地となった。1954年のヨーロッパグランプリでは観客数が推定40万人を超えたとされる。
1953年、ADAC1000km耐久レースが初開催。1960年のドイツグランプリは南コースを使いF2クラスで行われチャンピオンシップにはカウントされなかった。1961年8月に行われたドイツグランプリでは、プラクティスでフィル・ヒルがフェラーリ・156F1で北コースで初めて9分の壁を破る8分55秒2を記録。南コースではロードレースドイツグランプリが開催されることもあったが、主開催地はソリチュードやホッケンハイムリンクだった。
1970年にはニュルブルクリンク24時間レースが始まった。
1960年代後半にもなると、他のサーキットと同じく高速化するF1マシンでのレースの危険度が増加し、安全性に対する批判も増えていった。1967年、ピットレーンへの進入速度を抑制するため、ホーエンラインシケインがスタート/フィニッシュラインストレートの前に追加され、25m全長が伸びた。
1970年ザントフォールト・サーキットでのピアス・カレッジの死亡事故を受け、GPDAは前年にスパに対して行ったように、安全性向上のための改修が行なわなければドイツグランプリをボイコットすることを決定。改修は短期間では不可能であったため、ドイツグランプリは既に改修が行われていたホッケンハイムへと舞台を移すことになった。

1971-1983


コースは改修が行われ北コースはアームコバリアなど安全設備の設置、路面の再舗装によりバンプやジャンプセクションの除去などが行われた。コースレイアウトも調整がされレースラインがより直線的となり、公式なコーナー数も減少した。これらの改修が功を奏して1971年から再びF1の開催を実現した。
1972年、コース幅の狭いHatzenbach(ハッツェンバッハ)とBreidscheid(ブライトシャイト)の橋を掛替え。1973年、入り口が危険でバンピーであったカレンハルドコーナーの速度を落とすため手前のメッツゲスフェルトコーナーに左回りのコーナーが追加された。メインストレートのジャンプスポットの除去や、木や茂みの伐採によりセーフティエリアを拡大し安全性を向上させた。
1971年のF1復活後、F1ドライバーや国際自動車スポーツ連盟からの安全性への要求は年々高まっていった。しかしながら北コースは22kmにも及ぶ長大なコースであり、山の麓にある関係で安全エリアを設けるスペースを作ることが困難なこともあり、改修費用が膨大となってしまい、さらなる要求に答えることは不可能となっていった。コースが長いため救急車両の到着に時間がかかる問題や、成長するテレビ市場に合わないサーキットである点も露呈した。
1976年、F1ドライバーのボイコットが再び起こり、投票によりレースは行われる事になったが、ニキ・ラウダがレース中にクラッシュしマシンが炎上する大事故が起こった。この事故が決定的となり1976年がニュルブルクリンクでのF1最後の開催であると認識された。1977年よりF1はホッケンハイムに開催場所を移した。
ロードレース世界選手権は1960年代にソリチュードに変わりニュルブルクリンクで再び行われることとなった。当初は南コースが使われていたが、整備不良の問題から、1970年より北コースで開催されるようになった。
1981年より旧ピットエリア周辺でGPコースの新設工事が開始された。これにより北コースはバイパスされ20.832kmに短縮、小さなピットレーンも追加された。このレイアウトは1983年のみ1000km耐久レースなどで使用された。
北コースも1982-1983年に改修が行われ、アレムベルグやブリュンヒェンコーナーのランオフエリアが拡大、点在していたパンプやジャンプスポットが再舗装された。レーシングラインマーカーがコース全域にわたりペイントされた。
南コースは1970-1971年と整備が行われず、安全対策が北コースに比べ大きく遅れていることなどから、数年後に放棄される決断がなされた。現在南コースはコース後半部分の森林区間の一部などを残し大半が壊されるなどしてなくなっている。

1984 GPコース


1984年、ドイツGPの開催権を取り戻すべくGPコース(GP-Strecke)と呼ばれる当時の最高水準の安全性を備えたサーキットがフィニッシュコース(Zielschleife)部分を置き換えるような形で建設された。
5月12日のオープニングイベントではエキシビジョンレースが行われ、著名なドライバーが多数参加した。レース車両はメルセデス190E 2.3-16でジャック・ブラバム、フィル・ヒル、デニス・ハルム、ジェームス・ハント、ジャック・ラフィット、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、ケケ・ロズベルグ、ジョディー・シェクター、マンフレッド・シュルツ、アラン・プロスト、アイルトン・セナ、ジョン・ワトソンが参加、セナがラウダ、ロイテマンを抑え優勝した。
このGPコースにより1984年のヨーロッパGPと1985年とドイツGPが開催されたが2年間のみしか使用されなかった。
1985年から1987年にかけてビードルシケインが改修され、大幅にスピードが抑えられた。別に2輪用のルートも設置。F1離脱後のGPコースでの主なレースとしては1000km耐久やDTM、二輪、カミオン(トラック)レースやビンテージカーレースなどがあげられる。1986年にADACトラックグランプリ、ロック・アム・リングが初開催。

F1復活


ミハエル・シューマッハの活躍により1995年から2006年までヨーロッパGP(1997年と1998年はルクセンブルクGP)としてF1グランプリが再び開催されることとなった。F1開催復活と共にサーキット施設の改修も頻繁に行われるようになった。カストロールSの5000席のVIPエリア付きメルセデスグランドスタンドやメディカルセンターが新設。
1998年にはビルシュタイングランドスタンドも建て替えられ、初めて大型スクリーンも設置された。ニュルブルクリンクへの新しいアクセス道路も整備された。1999年から2001年にかけてピットビルディングやコントロールタワー、レースコントロール施設を建て替え、最新のメディアセンターも設置された。
2002年、GPコースが大幅改修。オーバーテイクチャンスを増やすため、スタート/フィニッシュストレート後のカストロールSを廃し、タイトな右コーナー(非公式愛称ハウグフック)に変更。それに続きインフィールドセクション(メルセデスアリーナ)を追加、それに伴いパドック横にあったカートコースは廃止された。GPコースの全長は4.556kmから5.148kmに長くなった。2003年、北コースはアスファルトが再舗装、GPコースはNGKシケインなどのデザインを少変更。
2007年からドイツ国内のF1グランプリをホッケンハイムリンクと隔年で交互開催することとなったため、2008年はF1グランプリが開催されなかった。2007年のヨーロッパGPを前にして8コーナー、9コーナーのAudi S(又はShell S)がミハエル・シューマッハSに改名された。
2009年のドイツグランプリに合わせて「ニュルブルクリング2009」という開発プロジェクトがスタート。ホテル、イベントホール、アミューズメント施設、ショッピングモールなどが建設。グランドスタンドも600人収容VIPラウンジ付きの5000席のものに建て替えられた。2009年のドイツグランプリには一部は完成が間に合わず、ジェットコースターring°racerは発射装置の不具合により2011年にオープンが延期された。

破産


2009年、遊園地の建設などを含めた大規模な改修によって、3億ユーロ(約300億円)の借り入れを行っていた。これによって経営が悪化した。EU(欧州連合)に対して、緊急の資金援助を求めたがこれを却下されたために2012年7月に破産するに至った。ニュルブルクリンクサーキットのオーナーは株式の90%を保有するドイツのラインラント・プファルツ州である。

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