حافظ الاسد
大統領になるまで
1930年10月6日、シリア北部アンサーリーヤ山地に位置するアラウィー派の小さな村カルダーハで生まれた。
14歳ほどからいくつかの賞を獲得するほど学業が優秀であった。
高校在学中の1946年、16歳でバアス等に入党。政治活動を始める。高校を卒業すると医学の道を志していたが、貧しさから大学進学を諦める。
1952年にアレッポの飛行士官学校に入学。ソ連での訓練を経た1955年の卒業後、少尉に任官し、シリア空軍に入隊した。
1958年のアラブ連合共和国成立後、大尉に昇進したハーフィズはカイロに派遣され、戦闘飛行隊長となり。軍事訓練を受けた。しかし、エジプトとの連合への懐疑的な見解から軍から解雇される。
1959年夏にハーフィズやサラーフ・ジャディード、その他同志4人で結成した軍事委員会が中心となって、1963年3月8日にクーデター「バアス革命」を敢行。バアス党に政権を掌握させた。
バアス党政権が樹立されると国防相を務め、1966年から1970年まで空軍司令官も兼任した。
サラーフはソ連の支援を受けてイスラエルなどに強硬路線を採るが、1967年に第三次中東戦争でゴラン高原を失う敗北を喫した。
これによりバアス党内ではサラーフ率いる急進派とハーフィズら穏健・現実主義派が対立し、1969年2月28日の政変で穏健派が実権を握り、1970年11月13日に矯正運動といわれるクーデターによってサラーフは完全に失脚。
1971年3月12日に国民投票によりハーフィズが大統領に選出された。
内政
ハーフィズはバアス党による一党独裁の廃止と議会制民主主義の復活を表明。
1971年2月に人民議会の召集、1971年3月に大統領選挙、新憲法の施行、1973年5月に人民議会選挙などを次々に実施。
一方で彼は、1973年に制定した新憲法において交戦権、法の施行、人民議会の召集・解散、非常事態の発令・解除、首相、裁判官、軍司令官、官僚の任命・罷免など、自身にとって絶大な権限を規定。
それだけでなく、大統領、軍武装部隊総司令官、大将、バアス党民族指導部書記長、同シリア地域指導部書記長、進歩国民戦線中央指導部書記長を兼任。絶大な政治権力を握り、「体制の私物化」を推し進めた。
治安部と諜報部はアラウィー派で占めさせた。
1970年代後半から経済状況が悪化したことや、スンニ派が大多数のシリアで約10%程度の少数派アラウィー派を優遇したことがスンニ派の反発を招き、国内でムスリム同胞団などの台頭がみられるなど、政権基盤の不安定化した。
イラン革命に触発された1980年代前半にはイスラム主義者の政権に対する反抗が激化。
1980年6月26日にはハーフィズの暗殺未遂事件が発生すると、彼は報復として27日にタドモル刑務所のイスラム主義者を皆殺しにし、7月にムスリム同胞になったものは[[死刑]にする法律を制定した。
そして1982年には中部の都市ハマーなどでイスラム主義勢力による暴動が起こる。
アサド政権はこれを武力鎮圧し、ハマー虐殺を引き起こしたのだった。これによってムスリム同胞団の活動は衰退に向かう。
対外
大統領就任以後はゴラン高原の奪還を目標に、対イスラエル強硬派であるエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領と組み、第四次中東戦争に参戦。
第三次中東戦争で奪われた土地の一部を奪還することに成功したことでアラブの国々はサダトと共に英雄視されることになった。
他にもエジプトと共にアラブ共和国連邦を樹立している。
1974年には北朝鮮を訪問したり、シリア西部のタルトゥースにソ連軍の基地を設置してソ連との結びつきを強めたりと、東側諸国との関係が強かった。
1976年からはレバノン内戦にシリア軍を派兵して介入し、レバノンを事実上の影響下に置くに至る。
また、バアス党の正統性やユーフラテス河の水資源利用を巡って隣国イラクとは対立関係にあった。そのためイラン・イラク戦争ではアラブ諸国で唯一イランを支持した。
最期
1994年には、長男のバースィルを交通事故で死去。後継者問題に大きな打撃を被ったが、ロンドンで医師として生活していた次男のバッシャールを急遽呼び寄せて後継者としての帝王教育を施した。
2000年6月10日にレバノンのサリーム・アル=フッス首相との電話会談中に心臓発作を起こして死去。69歳だった。
2024年にはアサド政権が崩壊したことで、故郷カルダーハのアサド霊廟に葬られていたハーフィズの遺骸は焼却された。