概要
誕生日とされる9月1日は洗礼を受けた日であり、実際の誕生日はそれより前、8月下旬ごろではないかと言われている。
少年時代には後に聖ゼバルドゥス教会の聖歌隊先唱者となったハインリヒ・シュヴェンマーから音楽の教育を受ける。
若いころから音楽と学問に優れ、1669年にアルトドルフ大学に入学。経済的な事情で1年と経たずに大学を辞めることになったが、1670年にレーゲンスブルクのキムナジウム・ポエティクムの奨学生となる。キムナジウムの教授たちからも学問の才能を高く評価されたという。
1673年頃にウィーンに移住。聖シュテファン大聖堂の次席オルガニストに就任する。
当時のウィーンはハプスブルク帝国の中心地であり、イタリア風の作品が好まれていた。
そこでニュルンベルク時代の厳格なルター派とは対照的な南ドイツやイタリアのカトリック音楽を学び、1677年にアイゼナハに移る。
アイゼナハでは宮廷オルガン奏者として宮廷とゲオルグ教会での礼拝に携わる。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの父アンブロジウス・バッハと親しくなり、彼の子供たちの家庭教師を任された。しかし1678年に宮廷音楽家の大規模な人員削減のあおりを受けて失職する。
同年6月にエアフルトのプレディガー教会のオルガン奏者として雇われる。エアフルトでもバッハ家との交流は続いた。
エアフルト在住期間中にドイツの主要なオルガン作曲家の地位を確立し、『コラール前奏曲』などを手掛ける。
1690年にエアフルトを離れヴュルテンベルク公国・シュトゥットガルトの宮廷音楽家・宮廷オルガン奏者に就任するが、大同盟戦争に伴い避難し1692年にゴータでオルガン奏者を務める。
かつての教え子であるヨハン・クリストフ・バッハが1694年10月に結婚した際には祝いの席に招待されており、この際にヨハン・ゼバスティアン・バッハと対面した可能性があるとされる。
1695年にゴータを離れニュルンベルクに帰郷。室内楽曲集『音楽の喜び』、鍵盤楽器のための6つの変奏曲『アポロンの六弦琴』などを手掛ける。
1706年に死去。3月9日に埋葬が行われており、当時の慣習から死亡日は3月6~7日ごろではないかと言われている。
作品
生前はオルガン奏者として知られ、『シャコンヌ ヘ短調』、『トッカータ ホ短調』など多数のオルガン曲を手掛けた。
特に有名な「パッヘルベルのカノン」こと『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』であるが、これは彼が生涯手掛けた唯一のカノンであった。
余談
かつてNHK教育テレビで放送されたクラシック音楽番組「音楽ファンタジーゆめ」で「カノン」が紹介された際、エンディングでは本人の肖像画とされる絵には全然似ていない似顔絵、それもバロック期では有り得ない黒髪のひげ面で登場していた。
ちなみに本人の肖像画とされていた絵は現在ではヨハン・クリストフ・パッヘルベルという別人のものとされている。