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ヘンデル

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ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルとは、ドイツの作曲家、オルガニスト(1685-1759)

概要編集

1685年2月23日(グレゴリオ暦3月5日)、ドイツブランデンブルク=プロイセン(現ザクセン=アンハルト州)ハレに生まれる。

幼少期より非凡なる音楽の才能を発揮したが、床屋兼外科医として公爵に仕えていた父親は息子を法律家にしようと考えており音楽への道へ進むことは反対していた。

父の目を盗んでクラヴィコードを入手し、夜な夜な屋根裏部屋で練習を重ねる。幸いにもオルガンの腕前が公爵に気に入られ、公爵の援助を受けることができた。

1697年に父親が死去したことで音楽の道に進めるようになったが、同時に収入と支えを失ったことで危機意識にかられ音楽と勉学に励む。

1702年にハレ大学に入学。同年にハレ大聖堂のオルガニストとして1年間の仮採用契約を結ぶ。

このころにオペラに関心を持ち始め、ベルリン王宮を訪ねた際にフリードリヒ3世から宮廷への就職とイタリアでの勉強を提案されたが、これを固辞してハレに戻ったとされる。

1703年にハレ大聖堂との契約満了後、大学を辞めてオペラが盛んだったハンブルクに出る。ハンブルクオペラの中心人物であるラインハルト・カイザーが運営するゲンゼマルクト劇場で第2バイオリン奏者として採用され、その後チェンバロ通奏低音奏者や演奏監督として活動する。

1704年からカイザーに代わって自らオペラの作曲を行う。最初のオペラとなった『アルミーラ』は約20回上演され大成功を収めた。

ハンブルク時代にはヨハン・マッテゾンと親友関係になり、彼の計らいで劇場で職を得たが、オペラ『クレオパトラ』の上演中に大喧嘩の末に決闘で刺殺されかけたこともあった。後に和解し『アルミーラ』ではマッテゾンがテノールの主役を演じた。


トスカーナ大公子フェルディナントの熱烈な誘いを受けて1706年から1710年までイタリアを巡る。当時はローマ教皇庁からの命令でイタリアではオペラが禁じられていたため、最初のオラトリオ時と悟りの勝利』を作曲した。

ドメニコ・スカルラッティと鍵盤楽器の競演を行い、チェンバロについては互角だったがオルガンはヘンデルが圧倒したという。

イタリアでパトロンたちから熱烈な歓迎を受け、カンタータなども発表したが、当時のイタリアは周辺国の侵攻や経済的没落により斜陽を迎えており、1710年にイタリアを離れた。

同年にハノーファー選帝侯の宮廷楽長となるが、直後に1年間の長期旅行の許可を得てロンドンへ発った。

現地貴族からの要望を受けて2週間で書き上げたとされるオペラ『リナルド』は15回の上演を数える大成功を収めた。

1712年にロンドンを再訪。その後はハノーファーに帰ることになっていたがそのままイギリスに住み着き『忠実な羊飼い』、『テセオ』などのオペラを発表。

1714年にハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられたが、ヘンデルがハノーファーに帰らなかったことはとがめられることはなかった。実はヘンデルのロンドン居住は選帝侯の命を受けた諜報活動を兼ねていたという推論もある。

1717年にテムズ川での王の船遊びのため『水上の音楽』が演奏された。


1719年にオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立されると、ヘンデルは芸術部門の中心人物となった。

アカデミーの音楽の大部分を作曲し、『ラダミスト』、『ジューリオ・チェーザレ』、『タメルラーノ』、『ロデリンダ』などのオペラを手掛けた。

1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられ、1727年にイギリス国籍を取得。ジョージ2世の戴冠式に『戴冠式アンセム』を上演した。

アカデミーはスター歌手への多額の報酬や歌手同士の対立などもあって経営は悪化、1728年の『アドメート』再演をもって活動を停止した。経営は大失敗だったがヘンデルのオペラ活動としては最盛期だった。


ヘンデル自身は資産運用で財を蓄えており、スイス人投機家ジョン・ジェームズ・ハイデッガーと共にアカデミーを立て直すとイタリアで歌手と契約を結びドイツ経由でロンドンに戻った。

インド王ポーロ』などで成功を収めるが、ジョージ2世に対抗する王太子フレデリック・ルイスはアカデミーのライバルとなる貴族オペラを設立する。

ハイデッガーは1734年に契約を満了するとそれまでアカデミーのオペラを上演していたヘイマーケット国王劇場を貴族オペラに引き渡し、さらに貴族オペラ側はアカデミーの歌手を引き抜いていった。

作品自体の評価はヘンデルの方が高かったが、1734年に第2期アカデミーは閉幕、貴族オペラも多額の赤字で1737年に倒産した。

ヘンデルは破産こそ免れたものの経済面・心身面で疲労が大きく、同年4月に卒中で半身不随となる。

奇跡的に回復した後にハイデッガーと手を組み『ファラモンド』、『セルセ』などを発表するもロンドンでオペラが成功することはなく、次第に盗作同然の楽曲を発表するようになる。

しかし現在も知られているヘンデルの楽曲の多くはこれ以降に作曲されたものが多い。

1739年にオラトリオ『サウル』、『エジプトのイスラエル人』を上演。同年秋には『聖セシリアの日のための頌歌』を10日で書き上げた。

1740年出版の合奏協奏曲集『作品6』はバロックの弦楽合奏作品として現在でも評価が高い。

しかしこのころスペインとの戦争や大寒波の影響で音楽会は芳しくなく、オペラへの復帰を試みるが不振に終わった。


1741年にアイルランド総督ウィリアム・キャヴェンディッシュから慈善音楽界の招待を受けダブリンへ渡る。ダブリンで披露したオラトリオ『メサイア』は大好評を受けヘンデルにとっては起死回生の作品となった一方、台本を書いたチャールズ・ジェネンスは短期間で作曲したことと初演が自分の行くことのできないダブリンだったことに立腹したとされる。

ロンドンに戻ったヘンデルはオペラの依頼を断りオラトリオを中心に活動。『ヘラクレス』などの傑作を生みだしつつ試行錯誤を繰り返した。

1749年夏に馬車の転覆事故で負傷。1751年2月から左目の視力の衰えが深刻化し夏には完全に左目が失明してしまう。1752年には右目も失明してしまったため作曲活動から手を引き演奏に専念した。

1759年4月14日に体調悪化によりイギリスロンドンで死去。当人はひっそりと埋葬されることを望んだが、別れを惜しむ3000人の民衆が押し寄せ、新聞や雑誌には無数の追悼文が並んだという。


作品編集

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