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概要編集

ヨハネス・ケプラー(1571年12月27日~1630年11月15日)


ドイツ天文学者数学者自然哲学者

地動説を支持し、天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を提唱。天体物理学の先駆者とされる。

神聖ローマ皇帝ルドルフ2世オーストリア大公としてはルドルフ5世)に占星術師として仕えた。


来歴編集

1571年12月27日、自由都市ヴァイル・デア・シュタット(ドイツ)で居酒屋を経営していたハインリヒ・ケプラーの3男として誕生。

1576年、天然痘にかかり、視力が低下するなど後遺症が残る。

1577年、家計が悪化し、父ハインリヒは傭兵となり家族と離れる。1577年の大彗星(日本では「松永星」「弾正星」などと呼ばれた)を目撃。

1587年、テュービンゲン大学(ドイツ)神学科の給費特待生試験を受け合格。大学の教養課程でコペルニクスの宇宙体系を知り傾倒する。

1589年、父ハインリヒが戦死。

1594年、テュービンゲン大学を卒業し、グラーツ大学オーストリア)で数学・天文学の教師となった。

1596年、『宇宙の神秘』を出版。コペルニクスの太陽中心説(地動説)を支持する内容で、これを読んだガリレオ・ガリレイからファンレターが来た。

1597年、バルバラ・ミューラーと結婚。

1598年、オーストリア大公フェルディナント2世プロテスタントの聖職者と教師の退去を命じたため失職。

1599年、ルドルフ2世の宮廷付占星術師ティコ・ブラーエの助手として招かれ、プラハチェコ)に転居。ブラーエの観測データは肉眼で観察されたものとしては最高の精度を持っていた。

1601年、ブラーエが死去。遺言により観測データの整理を委託された。ケプラーはブラーエの後任の占星術師としてルドルフ2世に仕えた。

1609年、『新天文学』を出版。「ケプラーの法則」の第1・第2法則が書かれている。

1611年、妻のバルバラが死去。

1612年、ルドルフ2世が亡くなる。リンツオーストリア)で州数学官となる。

1613年、ズザナ・ロイティンガーと再婚。

1619年、『宇宙の調和』を出版。「ケプラーの法則」の第3法則が書かれている。

1620年、母カタリーナが魔女裁判に掛けられ、故郷に帰り弁護に奔走。

1621年、母の無罪判決を勝ち取りリンツに戻った。

1626年、反乱軍によってリンツが被害を受けたためウルム(ドイツ)へ転居。

1627年、ルドルフ表を完成させた。

1630年11月15日、レーゲンスブルク(ドイツ)で病死(58歳)。


関連タグ編集

天文学者 数学者 占星術師 地動説 ケプラーの法則

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