概要
名称
ホニは本来、「自走式野砲」や「野砲搭載自走砲」、試作車完成後は「試製一式自走砲」または「一式七糎半自走砲」などの名称で開発が進められていた。
開発は砲兵部隊が主導で行っていたが、車体部分は歩兵部隊所有の九七式中戦車であったため、歩兵部隊も開発に関わっていた。
ところが試作車が完成した1941年(昭和16年)に当時歩兵部隊から独立した戦車部隊側より「ホニを砲戦車として採用させろ」と要望が多数上がった上、独自に試験を行い「試製一式砲戦車」と名付けてしまったため、砲兵と戦車部隊の間でホニIの所属を巡り争いが起きかける。
なお、独自に行われた試験では、移動する目標に対する命中精度や威力は高評価を下しているものの、水平射界が狭いため、水平射界の拡大や銃弾や砲弾の破片への防御性能の低さを考慮して、オープントップから密閉型の戦闘室への変更が計画に盛り込まれている。
また、ホニというコードネームもこの時期に付いたとされ、由来は砲戦車第2案の略とも言われる。
ややこしいが、この「試製一式砲戦車」という呼称は、二式砲戦車の前身だった一〇〇式砲戦車 ホイ(以下、ホイ)にも使われている。ホイは山砲を搭載する砲戦車として1937年から開発されていたが、1939年に起きるノモンハン事件以降、命中精度や対戦車能力の低さが問題となり、砲戦車として不適格であるとされてしまっていた。代わりに、当時開発が進められていたホニIを戦車部隊の考える理想の砲戦車に近い存在と考えたのである。
最終的にはホイとの比較試験や協議を経て、ホニIは当初の予定通り砲兵部隊所属の兵器、自走砲として生産・部隊整備が進められていくことになる。
(一式砲戦車という名称はこの争いの名残であり、戦車第30連隊が命名したといわれる。)
しかし情報改定の遅れにより、この「一式砲戦車」という名称はしばらく使われた上、戦争末期になると戦車連隊の中に砲戦車部隊とは別に自走砲部隊や歩兵部隊などを組み込むことが多くなり、その自走砲部隊に配備されたホニIの使用法が砲戦車に似ていたため、前線側が「一式砲戦車」と呼ぶ例もあった。
(兵器の生産・配備を担当する部署からは、砲戦車=対戦車能力に優れた車両全般と考えるようになり、自走砲・砲戦車の区分が曖昧になったことも「一式砲戦車」という呼称の方が有名になった一因と思われる)
乱暴に言えば、日本陸軍としてはどちらかといえば「一式七糎半自走砲」こそがホニの公式名であり、「一式砲戦車」は戦車部隊側の通称・アダ名という扱いに近い。
構造
車体は九七式中戦車の車体を利用し、その上部に簡素な装甲板の囲いを設け九○式野砲を搭載した。囲いは前半分のみであり、後ろ半分は吹きさらしのオープントップである。
これは多くの自走砲に見られる形式であるが、ホニIは歩兵支援の突撃砲としての運用も考えられていたため正面装甲は約50mmと九七式中戦車の二倍の厚みになっている。
敵を狙うのに必要な照準器は戦車や速射砲(対戦車砲)の場合は砲の横に付いており、砲に併せて動き移動する目標のための目盛りが付いていたが、ホニは屋根の上に固定されており、移動する目標のための目盛りもなく、移動する目標に対しては工夫が必要だったとされる。しかし、先述の戦車部隊側の試験報告によれば、移動目標に対しても命中率は良好との評価を下している。
この車両は結局、なんなの?
九◯式野砲の強化版または派生型。
まず当時の大きめの大砲は、移動や発砲するごとにいったん分解したり組立てたりしなければならず
位置に付いたからといってすぐに射撃ができなかったし移動したくてもすぐに移動するというのもできず、だからといってそのまま移動するのも難しかった。
そのため、欧米諸国が既存の火砲を撃てる状態で車に載せることで上記の問題を解決し効率化を目指し自走砲の開発が行われるようになっていく。
日本もこれを見習い1939年12月頃に九○式野砲を自走化したホニIの開発・研究を始め、2年近い歳月をかけ1941年に試作車が完成した。しかし、具体的な使用方法は曖昧であり、「細かい使用法は作ってから考える。」という有り様だった。
そのため同じく開発を共同で行った歩兵部隊(戦車部隊)との見解の相違から先述の争いにつながっていく。
(ホニIの試作車完成時あたりまでは、自走砲はある種の未知の兵器であり海外でさえ目立った活躍もなく、研究もどちらかといえば盛んではなかった。)
争いの鎮静化後はホニIの砲兵の構想通り、対戦車車両ではなく自走式野戦砲として運用していくことになる。
しかし、アメリカとの戦争が確定していたため、予算・資材の航空機重点主義が強まり既存の車両兵器の開発に追われ、生産が開始されたのはアメリカとの戦争が始まって半年後の1942年半ばである。
その後、アメリカの反攻作戦が本格化しM4中戦車が投入されるようになると既存の対戦車砲や戦車では対処が難しくなっていった。
そのためホニは野砲ではなく対戦車自走砲としての有用性が注目されるようになり、三式砲戦車に改良されるが結局実戦に投入されることはなく、戦線に送られたのはホニIである。
対戦車能力
搭載砲は徹甲弾を使用した場合200mの距離で約90㎜の装甲板を、1000mなら約70㎜の垂直装甲板を貫通することができた。これはM4中戦車を正面から撃破するには不十分であったが、実戦であるフィリピンの戦いでは500mの距離で正面から撃破したという報告があり、ホニIを鹵獲したアメリカ軍からも「あらゆる連合軍車両を撃破しうる兵器である。」と高評価をいただいてる。
戦績
対戦車兵器としての運用が決定した際、当初6両のホニIが戦場に送られたがその途中輸送海上にて
空襲により輸送船ごと沈没し戦線には届かなかった。
つづいて、機動砲兵連隊所属の4両がフィリピンに到着し実戦に参加することはかなったものの、多数の戦車やトラックを破壊擱座したが多勢に無勢には変わらず、戦局に何ら影響を与えることもなく部隊は全滅した。
実はアメリカとの開戦間もない1942年に熱帯地域での運用実験のため、1両のホニIがビルマの戦車第14連隊に配備されたが、インパール作戦時に主砲が故障したため牽引車としての運用にとどまる。
欠点
注意すべきなのは、あくまでホニIは戦車(砲戦車)でもなければ対戦車自走砲ですらない、自走式の野戦砲として開発された物で、いくら火力が高いといえども対戦車戦闘は不向きであり、即席の対戦車兵器という面が強かった。
またオープントップであるが故に銃弾や砲弾の破片による被弾に弱く、搭乗員の生存率が低かったため戦車(砲戦車)のような使用法も当然苦手である。
派生車両
一式十糎自走砲 ホニII
ホニIと平行に開発が進められていた自走砲であり、日本陸軍としてはこちらが本命だった。
主砲は九一式十糎榴弾砲を改造した火砲を搭載しており、ホニIと比べ歩兵支援色の強い車両であったが、九一式十糎榴弾砲はM4中戦車との対戦車戦闘に効果を上げており、対戦車戦闘に備え徹甲弾や成形炸薬弾も用意されていた。またホニIとは異なり、運用法や立ち位置には一貫性があった。
三式砲戦車
ホニIを砲戦車化したもの。戦闘室がオープントップ形式から密閉式に変更され、照準器も簡素ながら戦車に近いモノが取り付けられた。実戦参加は無し
詳しくは該当記事を参照