概要
鎌倉末期~南北朝期の神職・武将の一人。
諏訪神党に属する四宮氏は、信濃北部の川中島四宮荘に所在する武水別神社(現・長野県千曲市八幡)の神官家にして、鎌倉期には郡司・地頭も兼ねていた家柄であり、その姓や地名も同社が信濃の四宮であったことに由来する。
左衛門太郎もこの神官家の出であったとされるが、史料上に残された彼の活動の痕跡はわずかに一例のみであり、その生涯については謎に包まれた部分が殆どである。
その唯一とも言える事績は、同じく信濃の国人である市河氏に伝わる文書から確認することができる。建武2年(1335年)7月、信濃において勃発した中先代の乱に際し、当時埴科郡船山郷(現・長野県千曲市)に置かれたばかりの船山守護所が、北条氏残党に与する国人領主たちの襲撃に遭い、守護側についていた市河氏らの軍勢と青沼周辺で合戦となった。
この時、襲撃側の一人として諏訪神党の保科弥三郎らと共に名前が見えるのが、他ならぬ左衛門太郎であり、恐らくは襲撃側の中心にあったものと見られる。合戦は襲撃側の敗走という形で幕引きとなるも、その後も四宮・保科勢はなおも追撃に及ぶ守護の小笠原勢を相手に転戦を重ねた。
またその間には、諏訪氏や滋野氏といった諸勢力も、北条時行を擁して信濃府中へと進軍、国衙を焼き討ちし国司の清原真人某(左近少将入道某とも)を自害に追い込んでいる。つまるところ、守護所を襲った四宮・保科勢の蜂起は時行らの動きをカモフラージュするための陽動作戦だった可能性も指摘されている。
四宮・保科勢の転戦はその後も翌建武3年(1336年)まで続いているが、この頃になると既に守護の小笠原貞宗や、市河・村上といった敵方の勢力も勢いを盛り返しており、四宮・保科勢も含む北条方の残党も、埴科の清滝城に篭っていたところを守護側によって攻略された。これにより四宮氏は滅亡したとされ、保科氏も高遠への逃亡を余儀なくされた。左衛門太郎もこの清滝城にて一族と運命を共にしたのか、あるいは別の道を辿ったかまでは明らかではない。
武水別神社はこの時の焼亡の後、現在の地へと社殿を移転した上で再建されたと伝わっており、同社の神官の職も紆余曲折を経て、戦国期に松田氏がこれを引き継ぎ現在に至っている。
関連タグ
四宮左衛門太郎(逃げ上手の若君):左衛門太郎を元にした、松井優征作の漫画『逃げ上手の若君』の登場人物についてはこちらを参照