概要
1946年11月10日生まれ。
1966年、ドラフト外で西鉄ライオンズに入団。
1967年は遊撃手と二塁手を兼ね91試合に先発出場、8月には2番打者に定着する。
1969年には打率.295(8位)の好記録を残した。以後パシフィック・リーグを代表する二塁手となる。
1970年の黒い霧事件で嫌疑がかかるが、コミッショナー委員会は八百長の依頼を断ったこと、八百長の報酬を渡されるも拒否したことを評価し、既に球団から出場停止となっていたことも考慮して出場停止処分は課さず「戒告処分」にとどめた。
1972年にはプロ6年目で初の3割となる打率.301、20本塁打、盗塁25を記録し、ベストナインを受賞した。
1976年、二塁手のポジションを吉岡悟に奪われ72試合の出場に留まる。吉岡は同年、パ・リーグの首位打者を獲得した。
1977年は吉岡が不振に陥り、出番を得た基が再び正二塁手の座についた。
1978年オフ、鵜沢達雄、根本隆との交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍。
1980年は二塁手に専念、監督の別当薫から振り子打法の助言を受けた結果、自己最高の打率.314(リーグ4位)を記録、ダイヤモンドグラブとベストナインに輝いた。両リーグでのベストナイン受賞は当時としては史上5人目だった。
1983年には高木豊が成長し定位置を譲る。
1984年はコーチ補佐を兼任し、同年限りで現役引退。
引退後は解説者や指導者として活躍した。
コーチ歴
横浜大洋ホエールズ (1984 - 1986)
日本ハムファイターズ (1987 - 1988)