概要
富山県出身の資産家で戦前の日本経済に大きな影響力を持った四大財閥の一つである安田財閥を創設した。
生涯
1838年に富山県の下級武士の家庭に生まれ1858年に奉公人として江戸へ出た後、25歳の時に独立し乾物と両替を商う安田商店を日本橋に開業した。
安田財閥の成り立ち
安田商店は幕府の御用両替を軸に巨利を得て成長し、明治維新後の1876年(明治9年)に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置した。
1880年(明治13年)には安田商店を安田銀行(現在のみずほ銀行の前身)に改組、
安田銀行は官庁の両替及び金銀取り扱いの御用達となり業務を拡大した。
1887年(明治20年)に安田保善社(現安田不動産)を設立し、同社を中核として安田財閥が成立した。
財閥の発展
安田財閥は銀行業以外にも鉱業や運送業も手中に収め、釧路の硫黄鉱山と鉄道、函館倉庫にまで手を広げた。
この後に炭鉱や釘工場、紡績所を保有するなどして発展し、三菱・三井・住友を抑えて日本最大の財閥へと成長した。
なお、安田善次郎は1909年(明治42年)に一線を退き次女の婿である安田善三郎に経営権を譲った。
最期
1921年(大正10年)9月28日、安田善次郎は神奈川県の別邸に滞在していた所を右翼活動家の朝日平吾に刺殺された。
朝日は犯行後に自殺したが、遺書の文面には
「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス(現代語訳:安田善次郎は巨万の富を築いたが富豪としての責任を果たすこと無く国家社会を無視し、貪欲にして卑しくケチで長らく民衆の恨みを集めている。私はその頑なさを哀れみ、仏心と慈しみの言葉で説得しようとしたが悔い改めなかったので自分が天誅を加えて世の戒めとする。)」
と記されていた。
折しも当時の日本経済は第一次世界大戦での大戦景気終了後の不況の只中にあった。
また、朝日は職を転々としながら行く先々で人間関係の衝突を起こす日々を送り、社会への不満を募らせていく中で資産家が富を独占して庶民を苦しめているという考えを抱いた事で犯行に及んだと言われている。
慈善事業
安田善次郎は資産家が富を独占していると思い込んだ犯人の凶刃によって斃れたが、生前の彼はは東京市に300万円を寄附したほか、東京帝国大学に講堂建築費として100万円を寄附するなど慈善事業を行っていた。しかし、「寄付は売名の為ではない。」という考えから生前は表立って発信する事は無くこうした活動が知られるようになったのは死後の事だった。
なお、彼の寄付は日比谷公会堂の建設に利用された他、寄付金によって建てられた東京大学の講堂は「安田講堂」として現存している。
関連タグ
同線の安善駅は安田善次郎にちなみ名付けられた。