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引退セレモニーまで編集

川上哲治監督の下、1965年から1973年にかけて、セ・リーグおよび日本シリーズを9連覇(いわゆるV9)を果たした読売ジャイアンツ(以下、「巨人」)。


しかし、前人未到の10連覇(V10)を目指した1974年シーズンは、V9の中心だった長嶋茂雄の年齢から来る衰えが顕著となった。(長嶋は当時38歳)

長嶋の不調と連動するように、前半戦はなかなか貯金が作れず、中日阪神との三つ巴の様相となる。

8月終了時点で一時的に首位に立った巨人だったが、9月に入るとぴったりと巨人に食らい付いていた中日に首位を奪われる。9月中旬に阪神が優勝争いから脱落し、巨人の中日のマッチレースとなったが、互いに連勝を重ねた事でゲーム差が縮まらず、10月12日にM2の中日が大洋とのダブルヘッダーを連勝した事で、中日は初優勝だった1954年以来、20年ぶり2度目のリーグ優勝を決め、巨人のV10を阻止した。


同じ日、長嶋茂雄の'74年シーズン限りでの現役引退が発表された。

2日後の10月14日、シーズン最終戦となる中日とのダブルヘッダーを連勝し、ゲーム差0まで迫ったが、勝率わずか1厘の差で優勝を逃したのだった。(中日.588、巨人.587。因みに3位のヤクルトとは12ゲーム差だった。)



スピーチ全文編集


昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、巨人並びに長嶋茂雄のために、絶大なるご支援を頂きまして、誠にありがとうございました。

皆様から頂戴致しましたご支援、熱烈なる応援を頂きまして、今日まで、私なりの野球生活を続けて参りました。今ここに、自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意致しました。


振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。その試合をひとつひとつ思い起こしますときに、好調時は皆様の激しい、大きな拍手をこの背番号3を、さらに闘志を掻き立ててくれ……。また、不調なとき、皆様のあたたかいご声援の数々のひとつに支えられまして……。今日まで支えられてきました。


不運にも、我が巨人軍はV10を目指し、監督以下、選手一丸となり死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし闘いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は敗れ去りました。


私は、今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です!


今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある巨人が明日の勝利のために、今日まで皆様方から頂いたご支援、ご声援を糧としまして、さらに前進して行く覚悟でございます。長い間皆さん、本当にありがとうございました。


その後編集

11月に川上が14年間務めた監督業を勇退し、長嶋が後任として指揮を執る事が発表された。

また、長嶋と共に三遊間を支えた遊撃手黒江透修、V9の司令塔として巨人を支えた捕手森昌彦(後の森祇晶)も同年限りで引退を表明した。

長嶋の引退により黄金時代は終わりを告げ、新たな波乱の幕が上がる事となる。


関連タグ編集

読売ジャイアンツ 長嶋茂雄

千代の富士:引退の記者会見の際に長嶋と同じく「体力の限界」と発言した。

熊田薫:「八百八は永久に滅」と発言して突っ込まれた。

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