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拓跋珪

たくばつけい

拓跋珪とは、中国南北朝次代の北魏の初代皇帝。死後、道武帝と諡される。

概要編集

鮮卑拓跋部を創始した拓跋力微(たくばつ りょくび)の血を引き、また五胡十六国時代に存在した国の10代王拓跋什翼犍(たくばつ じゅうよくけん)の孫でもあるなど、鮮卑の中でも高貴な家柄に生まれる。


代は、拓跋什翼犍の時代にはすでに衰退しつつあり、反乱や外敵により危機に瀕していた。拓跋什翼犍も、珪の父の拓跋寔も反乱者によって殺されており、最終的に代は秦(前秦)の苻堅によって滅ぼされる。拓跋珪は何とか生き残り、鮮卑の別の有力氏族であった賀蘭部に匿われる。


拓跋珪が成長すると、代を滅ぼした秦は、江南の強国東晋に大敗を喫して弱体化しており、中国北部は鮮卑慕容部の慕容垂が建てた燕(後燕)を始め、諸民族が様々な国を建国する戦乱の世となっていた。拓跋珪もまた、鮮卑匈奴を糾合し、代の復興を旗印に挙兵する。さらに後には魏に国名を変える。他の魏を名乗った国と区別するため、これを北魏と呼ぶ。この時の北魏は、弱小な小国でしかなかったが、同じく華北を荒らしていた柔然高車などの異民族を撃ち破り、急速に成長する。やがて、当時の強国である後燕とぶつかることとなった。慕容垂の死もあり、辛くも北魏は後燕に勝利する。後燕は、慕容垂の死後、後継者争いで混乱し、北魏は、後燕に変わって華北の強国に躍り出ることとなる。他に、後燕から分裂していた南燕や北燕も撃破した。こうして、華北は、北魏と、前秦を滅ぼし成立した後秦の2つの国に二分される時代を迎える。


拓跋珪は、漢人の政治家を大量に雇い入れ、漢人の文化を導入して国の基盤を作り上げていった(ただ、当時の漢人文化は、胡人の国が乱立する中で、胡人の文化と強く混じり合っており、大きな差が無くなっていたとも言われる)。しかし、晩年は酒色に溺れ、内政を顧みなくなったという。やがて拓跋珪と折り合いの悪かった息子の拓跋紹が、珪を殺害した。享年39。


拓跋珪の死後も、北魏は拡大を続け、やがて華北は北魏によって完全に統一されることとなる。また、江南も東晋を滅ぼした宋(南朝宋)が統一を果たし、これ以降、中国は五胡十六国に変わり、南北朝と呼ばれる時代を迎えることとなる。


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