明治三十八年制戦時服/明治三十九年制
めいじさんじゅうはちねんせいしんじふくめいじさんじゅうきゅうねんせい
大日本帝国陸軍において明治38年に「陸軍戦時服服制」で定められた戦時服及び明治39年の「陸軍軍服服制」で定められた軍服である。
後述する「代用服」を除いて「陸軍戦時服服制」が「陸軍軍服服制」にスライドしてきたような恰好のため、物としてはほぼ同一である。
「三八式」または「三九式」と呼ばれることもあるが、四五式軍衣と異なりあくまで俗称である。
(○○式という呼称は四二式と改四二式からが正しいものと思われる)
大日本帝国陸軍において当初は紺色と白色の軍服であったが、日露戦争中には野戦での偽装効果を高める狙いで「茶褐色」の軍服に移行し始めていた。
明治37年に「戦時服」が制定されていたが、こちらはあくまで「代用してもよい」という体裁であったた複雑で非合理的であったのか明治38年に入ってから新たな戦時服が制定された。
この「新戦時服」のデザインは昭五式軍衣まで続く、いわゆる「カーキの詰襟の軍服」であった。
後世の人間からは「三八式」と呼称されることが多い。
四五式軍衣との主な識別点はボタンで、大振りで饅頭のように膨らんだものが用いられている。
日露戦争終結後の明治39年に改めて「陸軍軍服服制」として制定され、晴れて「戦時服」は制式の軍服に移行したが、
一方で国費で購入した濃紺の生地が大量にストックされていた為そのまま破棄する訳にもいかず、こうした生地を消費する為、デザインはそのまま濃紺色の二種帽や軍衣、軍袴が製造され茶褐色のものと併用された。
この濃紺の軍服は当時「代用服」といった名称で呼称されていたが、後世の人間からは「三九式」と呼ばれることもある。
この頃の軍服の茶褐色は大陸の黄土を意識した「帯赤茶褐色」と呼ばれるもので文字通り赤味が強く
内地では偽装効果が損なわれると判断され明治42年に帯青茶褐色の生地で軍服が製造された。
後の四五式軍衣のようなボタンが小ぶりなものに変更されている。
色味の違いで四二式と改四二式の二種類が存在したが所謂試験配備であったらしく置き換えるには至らなかった。
しかし、大正~昭和にかけて帯赤茶褐色から帯青茶褐色に変更されていくのでこうした試験の結果が反映されたものと考えられる。