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池部良

いけべりょう

日本の俳優、随筆家。(1918年〈大正7年〉2月11日 - 2010年〈平成22年〉10月8日)

概要編集

東京市大森区(現・東京都大田区)出身。


大学卒業後、1941年に卒業すると同時にシナリオ研究所を卒業して東宝に入社する。

1942年の『緑の大地』のクランクアップの翌日に陸軍に召集され、中国山東省に派遣された。


終戦後、1946年に俳優に復帰する。映画界に復帰した池部は、日本共産党とそのシンパによる東宝争議に1948年秋まで煩わされた。


1948年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚し、その後も青春スターの第一人者として活躍を続けた。特に1949年の『青い山脈』では、当時30代だったにもかかわらず旧制高校の生徒をさわやかに演じ、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットした。

その後は1950年に新東宝の『暁の脱走』、1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演する。


『坊っちゃん』(1953年)、『雪国』(1957年)、『暗夜行路』(1959年)などの多くの文芸作品で影のある青年を演じ、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。1960年代に入ると徐々に脇役に転じた。


1964年に主演した『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。この頃、18歳年下の女性と再婚した。1960年代からはテレビドラマにも出演し始めた。


その後、東宝を退社し池部プロダクションを設立し、自ら映画を企画してストーリーを書くようになるが、1967年には1億円の負債を抱え、倒産した。


1965年、東映より高倉健主演『昭和残侠伝』(1965年)の出演を依頼されるが、妻に強く反対されたため、当初は断っているが出演しヒットした。なかでも『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語となった。


1983年より2009年まで(進展創設された)日本映画俳優協会初代理事長を務める。


2010年10月8日午後1時55分、敗血症により、東京都内の病院で死去。92歳没

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