狭穂姫命
さほひめのみこと
狭穂姫命は垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)。誉津別命(本牟智和気命)の生母。
『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命、または佐波遅比売命になる。
父は彦坐王(日子坐)、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売のむすめ)。
古事記によれば、同母の兄として狭穂彦(さほひこ)王、袁耶本(おざほ)王。同母の弟として室毘古(むろびこ)王がいた。狭穂彦王は、垂仁天皇治世下に反乱を起こし、狭穂姫命もその反乱時に焼死している(後述)。
垂仁天皇の次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王の女(むすめ)であり、狭穂姫命にとっての姪に当たる。
春の女神で同名の佐保姫とは無関係。
垂仁天皇の后である狭穂姫命(さほひめのみこと)は、兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)から「兄である私と、夫である天皇、どちらが大切か?」と聞かれ、兄だと答える。すると狭穂彦王は「私のほうが大切なら、二人で天下を治めよう」と言い、短刀を狭穂姫命に授け、垂仁天皇が寝ている間に殺すように命じた。
そんなこととは知らない垂仁天皇は后の膝枕で寢てしまう。そこで后は、短刀で天皇の頸を刺そうとする。三度試みたが、夫を失う悲しさに耐えられず、どうしても殺すことが出来ない。夫と兄の間で板挟みになった狭穂姫は涙を流した。その涙が天皇の頬にかかると、天皇は目を覚まし、次のように言った。
「私は妙な夢を見ていたよ。佐保(狭穂姫の故郷。狭穂彦王が治めている)の方から雨が降って来て、顔にかかったんだ。それから、錦色の小さな蛇が私の首にまとわりついて来たんだ。こんな夢は何かの前兆かもしれないな」
これを聞いた后は、すべてを天皇に伝える。
垂仁天皇は、軍を集めて反逆者たる狭穂彦王を討とうとする。狭穂彦王はそれに対し、備蓄用の稲を積み上げて、防塁として防戦した。狭穂姫は兄や郷里の人々を思うと心配でたまらなくなり、垂仁天皇の軍から逃げ出して兄の陣営に駆け込んだ。
この時、狭穂姫命は身ごもっていた。垂仁天皇は、后の懐妊と、愛し合った三年間を考えると、耐えられなくなった。そこで、軍勢には狭穂彦王が築いた稲の防塁を取り囲ませるだけで、急襲しないように命じた。
こうして、戦が長引いている間に、狭穂姫命は天皇の御子を産んだ。狭穂姫命は御子を防塁の外に置いて、「もしこの子を、ご自分の子とお思いになるのであれば、どうか引き取って育ててください」と天皇に伝言を頼んだ。天皇は「狭穂彦王は憎いが、狭穂姫命のことは今でも愛している」と言い、狭穂姫命を取り戻そうと考える。
天皇は、軍隊のなかからすぐれた兵士を選び、「御子を奪う時に后も奪い取れ。髪でもよい、手でもよい、つかまえてひっぱって来い」と命令を下した。
しかし、狭穂姫命は天皇の気持ちを察していた。そこで、髪を剃ってその髪でかつらを作ってかぶり、玉の腕輪は糸を弱るように腐らせて三重にまいた。また、酒で衣(ころも)を腐らせて、見かけだけは普通の衣のようにした。こうして準備をして、御子を抱いて、防塁の外に差し出した。
待ち構えていた兵士たちは、その御子を受け取り、さらに母である狭穂姫命をつかまえようとした。ところが、髪を握れば、髪は落ちていまい、手を握れば玉の緒が崩れ、服を握れば、服が破れてしまい、狭穂姫命を連れ戻すことは出来なかった。
兵士たちは垂仁天皇にこのことを報告した。天皇は、狭穂姫命を失った事を後悔し、腕環に細工をした者たちを恨んで、その私有地を没収した。
このことから「所を得ぬ玉造り」(褒美を貰おうとして、逆に持っている物を失う)ということわざが生まれた。
天皇はなおも狭穂姫命に言った。
「大体、子供の名前は必ず母親が付けるものではないか。どうかこの子の名前を言ってくれ」
狭穂姫命は答えた。
「稲で作った防塁が焼かれる時に、火の中でお生まれになりました。ですから、お名前はホムチワケの御子と名付けてください」(本牟智和気命 / 誉津別命)
また天皇が「どうやって養育をしたらいいのか」と訊ねると「乳母をつけ、産湯を使わせる大湯坐(おおゆえ)、若湯坐(わかゆえ)を定めて養育して下さい」と狭穂姫命が答えます。
さらに「そなたが愛を誓って、結んでくれた下着の紐は、いったい誰が解くと言うのか。そなたしかいないのに」といいつのると、「丹波道主王命(たんばのみちのうしのみこと)の娘に兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。そのふたりをお召しになるのがよいでしょう」と狭穂姫命は答えた。
この後ついに天皇は狭穂彦王を討った。炎に包まれた稲城の中で、狭穂姫命も兄に殉じた。