※本人の来歴については篠沢秀夫の記事を参照されたし。
概要
ポジションはレギュラー一枠。前任者である和久峻三が降板した翌週の1977年10月8日放送分から1988年7月30日放送分まで出演(1983年9月24日放送分の400回記念大会は「レギュラー解答者であるはらたいらと竹下景子、この回で降板した宮崎美子の3人が出場者に回る」と言う番組の構成上もあり欠席。番組降板後も5枠のゲスト解答者として数回出演した)。
篠沢教授がレギュラーに抜擢された理由は1977年1月29日放送分の回(大学教授とその教え子大会)に学習院大学チームとして当時の教え子とペアで出演した際、常に笑顔を絶やさないキャラクターだった事を番組スタッフに買われての物だった。
篠沢教授の正解率は低く、概ね8問(9問制だった初期や特番時除く)中2問程度しか正解しない。全問不正解の回も多数あり、10問以上にわたって連敗を続ける事もあった(最大の連敗記録は歴代3位の21で、男性解答者では1位である)。
その為倍率は高めに設定されており、負けが込んできたチームが最後の問題で「篠沢教授に全部!」と篠沢教授に全ての持ち点を賭けて自滅すると言ったパターンが番組では定番の展開(篠沢教授がその問題を見事正解し、賭けたチームの点数が大きく増えたケースもある)であった。そうかと思うと敬遠されて賭けてもらえなかったり、端数だけを賭けられることもあった。2枠の解答者との低レベルな争い、不正解時の嫌味なども毎回のように見られた。
番組内で大橋巨泉がたびたび使用していた「チャーリー」(番組内で問題製作を担当していた構成作家チームを指す)と言うフレーズの生みの親も篠沢教授である。
珍解答
珍解答を連発する上、間違っているのが明らかであるにもかかわらず篠沢氏は自信満々に満面の笑顔で説明するので巨泉氏はよく呆れていた。
以上の勇姿は現在、TBSチャンネルの再放送で見ることができる。
ただし、これは大学教授という職業が「高い教養の持ち主でなんでも知っている」という一般的なイメージを崩し、「大学教授は専門分野に特化した教養の持ち主であり、なんでも知っているとは限らない」と言う事を証明した一例となった。つまり珍解答が出てもおかしくはないのである。
これは同じく教養クイズバラエティであったフジテレビの『平成教育委員会』でも起こっている。