1951年7月5日生、2013年8月22日没。
岩手県出身、北海道育ち。本名は宇多田 純子(旧姓:阿部)。
浪曲師の父と三味線奏者の母の間に生まれ、幼少期から両親のドサ回り(地方巡業)に同行、自身も歌を歌っていた。
17歳のときにさっぽろ雪まつりのステージで歌っていたのをきっかけにスカウトされ、1965年に歌手デビューする。可憐な容姿とは裏腹のドスの効いたハスキーな低音で、暗く陰鬱な内容の曲を多く歌い、一世を風靡した。
演歌を中心にカバー曲を多数リリースし、時には本家を凌ぐほどの歌唱力と表現力が高く評価された。八代亜紀とは親しく、彼女の楽曲のカバーも発表している。
1970年の「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒット、その後もヒット作を連発するも、歌手の前川清と結婚し、引退する。
しかし、わずか1年で離婚し復帰。1974年には喉のポリープの手術を受けている。1979年に再び引退し、渡米するが、1981年に帰国し「藤圭似子」の芸名でレコードをリリースする。
1982年に音楽プロデューサーの宇多田照實と再婚。83年にニューヨークで娘を出産する。
照實とは7度に及び離婚と再婚を繰り返すが、照實の運営する事務所の役員もつとめるなど単純な不仲というわけではなかった。娘の目から見ても両親の関係について複雑なものがあったとコメントされている。
1990年ごろからアメリカと日本を行き来し、日本のテレビ番組にも出演していたが、1998年に娘が「宇多田ヒカル」としてデビューしたことと前後して再び芸能活動を休止。一方でヒカルの活躍に比例して本人も若い世代に注目されるようになった。
2013年8月22日、東京都内の知人宅から転落して死亡した。自殺とみられている。享年62歳。
「遺言書がある」とのことで、本人の生前の遺志に沿い葬儀はなく、火葬に親族関係者が数名参加する直葬となった。また、本人の実家(阿部家側)とファンの有志により「しのぶ会」が開催された。娘のヒカルが後に発表したコメントにより、1988年ごろから精神疾患を患っていたが、本人に病識が無く治療を受けさせることが出来なかったことが明らかにされた。
生前は娘の才能を信じ、周囲の音楽関係者に売り込みをかけていた一方で、ヒカルも母としての彼女を「とてもかわいらしい人」「母の娘に生まれたことを誇りに思う」と表現している。
後の「OneLastKiss」のPVでは母のポートレートを掲げて笑うヒカルのショットが挿入されている。