ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

諸法無我

しょほうむが

仏教のテーゼのひとつ。「世のすべての存在には主体と呼べる“我”がないこと」の意。『無我』とも呼ぶ。

概要編集

サンスクリット語सर्व धर्म अनात्मन् sarva- dharma-anaatman


仏教用語の1つであり、同じく仏教における世の摂理『法(ダルマ)』の中の一つとされる『諸行無常(無常)』と共に存在する真理である。


この世の現実にある、ありとあらゆる全ての存在・物事は、姿も本質も流動し常に変化するものであり、ゆえに「全く同じもの」や、「永遠に変わらないもの」はこの世には存在しないというのが諸行無常である。


ところが、我々人間はそうした変化を繰り返し続ける無常の世界の中にいて、「(常に変化し続けているのに)変化しない何か」を捉えようとしたり、「(常に変化し続けているのに)何かがきっかけになって変化してゆくのだ」と考え、変化に何かの主体(変化させる何か)があると思い込み仏教ではそれを『我(が)』という。

ヒンドゥー教における、ありとあらゆる生き物が持つという自我(アートマン)がこれにあたる。


しかし仏法の真理において『我』は無いとされ、そうした真理を諸法無我(無我)』と言われる。

この世の一切のものには『我』としてとらえられるものは無く、自分自身の存在さえ自分のものではない(もしくは自分だけのものではない)


この世の全てのものは、目に見えるもの見えないものを含め、生きているのではなく縁起によって生かされていると考えられる。


例えば、


父と母がいなければ自分は生まれず、父と母も祖父と祖母がいなければ生まれていない。祖父と祖母も曾祖父と曾祖母がいなければ生まれていないし、果ては先祖がいなければ曾祖父と曾祖母から以前・以降の自分も含む全ての人も生まれていない


この世の生き物は、別の生き物を食べることで生きていられる。やがて死ぬと土に還って養分となり、別の生き物の糧となる。更に生命が育つにはそのための環境も必要になる。自分を含め、この世はそうして“他のものから命を貰う”ことで、生かされている


など。

そうした共々に生かされ生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとされる。


関連タグ編集

仏教用語 仏教

四字熟語 真理


法(ダルマ)

諸行無常(無常) 一切皆苦()

涅槃寂静(涅槃)

関連記事

親記事

仏教用語 ぶっきょうようご

子記事

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました