シャイアン前史
ハミルトン・ハウズと空中機動戦術
1962年、当時のアメリカでは民主党が政権を取り、ジョン・F・ケネディが大統領となっていた。そんな中で国防長官に就任したロバート・マクナマラは、数学理論を取り入れた独自の合理主義によって軍の無為な拡大を避け、より効率的で実用的な軍隊への転身を目指していた。
そんな軍制改革の中で設立された戦術機動要件委員会も、新たな時代における陸軍の在り方を模索し、ヘリコプターを利用できないかと考えた。ヘリコプターならトラックと違って道路や地形の良し悪しは関係なく、しかもかなりの高速で移動できる。
だが、戦場とは敵味方の弾丸飛び交うものなので、非武装の輸送ヘリではどうにも心もとない。しかも普通、こういった機は搭載力いっぱいまで歩兵や燃料・物資を載せるものなので、その上武装する余力など有る訳もない。だったらいっそ、武装は護衛した別の機に任せることにしよう。こうして武装ヘリに護衛された輸送ヘリ部隊という、ヘリボーンの根本になる構想がまとまった。
この戦術機動要件委員会は通称「ハウズ委員会」とも呼ばれ、その議長ハミルトン・ホーキンス・ハウズ大将は、元より陸軍戦力と航空戦力の組み合わせには関心が高く、1941年にはアメリカ陸軍航空隊(USAAF)の設立に関わったほか、その後も陸軍における航空兵器の在り方に、常に新風を吹かせる新進気鋭の将軍であった。
取るもの取り敢えず:ヒューイ・ホッグの誕生
「汎用」のUは「万能」のU
しかし1962年当時、既に実用化されていて、尚且つ武装する余裕がありそうな機といえば、59年登場のUH-1位しかなかった。陸軍に引き渡されたUH-1は、当初こそ構想通り「負傷者の後送用」として扱われていたが、これを契機に「武装ヘリ」として使われるようになっていくのである。
1962年6月、ハウズ委員会はベル・ヘリコプター社に「新しい武装ヘリコプター」として大まかな要求を提示した。
もちろん実用的な検証も欠かさない。同年7月にはハウズ委員会の推奨により、15機のUH-1が改造された。いずれも部隊の整備所でスキッド(降着そり)上に武装架を追加工事し、そこに7.62mm機銃とロケット弾ポッドを搭載した。この部隊はUTTHCO(汎用戦術輸送ヘリコプター中隊)と呼ばれ、同年10月にはベトナムで実地試験を始めている。
その後5か月に及ぶテストの末、1機が失われたものの、ヘリコプターで最も脆弱な離着陸時の安全性を、非常に効果的に高めるという結果が得られた。輸送ヘリが接地して歩兵を展開させる間、周辺を掃射して敵を追い払うことは有効だったのである。
「万能」のUは「中途半端」のU
だが、この時は輸送ヘリと武装ヘリとは全く同じ機であり、武装ヘリは増加した重量・空気抵抗により、輸送ヘリから取り残される事態が発生した。
そこで1965年には、FAS計画(後述)により、機体を拡大して輸送ヘリとして輸送力を強化したUH-1D、武装ヘリとして出力を強化したUH-1Cが開発された。このC型はより進化・洗練された武装セットが導入され、エンジン・ローターも新型とされた。しかし、別に強化されたところで戦闘に不便な事そのものには変わりがない。やはり中途半端ということになってしまった。
しかしベル・ヘリコプター社に万事抜かりは無かった。
先に提案(悪く言えば官民癒着とも)を受けた『大まかな要求』により、UH-1の部品を流用した武装ヘリの開発に取り掛かっており、1962年にはD225「イロコイ・ウォーリア」実寸大模型を完成させている。続いてOH-13「スー」を改造してモデル207を製作し、縦列複座方式や機首銃塔、武装スタブウィングといった、現在の攻撃ヘリコプターの基礎となる技術を実証した。
AAFSS(新型航空火力支援システム)計画
開発までに
武装ヘリそのものの有効性については、データの上でも明らかだった。
1962年にはこのD225に陸軍技術開発部も注目し、採用に向けて検討を始めたが、当時の陸軍上層部は「既存の部品を流用した暫定品」といった中途半端な兵器の開発に乗り気ではなかった。
だが陸軍長官からの助言に基づき、(間に合わないかも知れないとはいえ)本格的な機の開発も始まることになった。
その要求仕様は
・気温35℃、高度6000ft(約1800m)で、最大220ノット(約410km/h)、巡航195ノット(約360km/h)を発揮すること
というものであった。
1964年に高等研究計画局(DARPAの前身)ではこうした目的の変更を承認(条件付き)する一方、研究する間にUH-1Bの性能を向上させて何とか間に合わせられないかの研究、FAS計画も指示している。が、同年3月には『性能強化そのものは出来るものの、あの要求仕様はどう頑張ってもムリ!』との結果が防衛科学技術担当長官(DDR&E)に通知された。
二者択一
そこで1964年3月26日、FAS計画をAAFSS計画として再始動。
8月にはAAFSS計画の要求仕様を国内各社に提示した。
65年にはシコルスキーS-67案・ロッキードCL-840案のうち、実現性が高いとしてロッキード案を採用した。
このCL-840案、後のAH-56「シャイアン」はT64ターボシャフトエンジンを搭載し、AH-1の3倍以上にもなる約3900軸馬力を発揮する。通常のヘリコプターのような主ローター・尾部ローターに加え、更に大型のスタブウィングによる空力・推進用プロペラを備えて最高速度は400km/h以上を記録した。
高速では主ローターによる揚力の効果は減少し、むしろ推進プロペラによるスタブウィングの揚力が機体を支えるようになるが、こうした機は「複合ヘリコプター」に分類される。
主ローターで機体の自重を支える一方、推進力には別個の推力を持つ機のことである。
シャイアンの性能
要求仕様で第1位の要求であった速度性能は達成していた。
前からガナー・パイロットの二人乗りで、特にガナー席は機銃の旋回に合わせて席自体も回転するようになっている。(のちに墜落事故後の対策で外され、通常の射出座席に変更)
機銃は機首に左右110度まで旋回可能な7.62mmミニガンXM196と40mmグレネードランチャーM129の連装銃塔、コクピット下に30mm機銃XM140の銃塔(360度旋回)とを備える。
スタブウィングにはTOWミサイルの3連装ランチャーと2.75インチロケット弾ポッドを搭載可能。両方を合わせればUH-1C「ヒューイ・ホッグ」に比べてかなりの重武装となり、とくに3種類の機銃を標準装備する実用機は現在も存在しない。また、TOWの運用能力も当初のAH-1には無かったものであり、実装されるには1973年にAH-1Qが登場するまで待たねばならない。AH-56は、本当に将来を期待された高性能機だったのである。
初飛行と挫折
1967年9月にAH-56(2号機)が初飛行を遂げる。
この時には早速ローター強度の低さが指摘され、それも低高度・地表効果の及ぶ範囲での不調であった。その他細かなトラブルにも見舞われて、それぞれ対処を要求された。
12月には初の公開飛行が行われ、この時複合ヘリならではの飛行を披露してみせた。
通常のヘリコプターは加速・減速に機首の上下を伴うが、推進プロペラのおかげで機首を水平のまま加減速できたのである。他にも50km/hの横風下でも安定したホバリングを披露してみせたり、最後は通常の航空機のように、2輪で着陸してみせたりした。
が、1968年12月には試作3号機のローターが破損して機を直撃し、テストパイロットが死亡するという事故が発生。原因は操縦ミスではあったが、根本はやはりローターの強度不足に根差すもので、操縦系に「手ごたえ」を返す人工感覚装置を欠いていたため、ローターの異常振動にパイロットは気づかず、過負荷により破損・操縦不能に陥っていた。
AH-56はこの後も何かと実用に向けたテストが繰り返されたが、結局は最後まで上手くいかなかった。その後ベトナム戦争は「ベトナムからの撤退」という形で終結を迎え、こうなると陸軍に「複合ヘリコプター」のような複雑・高価で過剰性能な機は、導入する理由も予算も意欲も失せてしまった。1972年8月9日にAH-56開発計画は中止された。
ムチャ振りは失敗の香り
AH-56は、同じ陸軍機の護衛のため開発され、最大400km/hを発揮する高速機ではある。
被弾確立の低減や攻撃位置への迅速な移動等々、軍用機というのは素早いに越したことはない。
ただ、何事にもバランスというものがあり、速さ一辺倒で他がおろそかになってはいけない。その点、AH-56は速さに傾倒しすぎていた。
どうしてそうなったのか。
開発の始まった1960年代初頭、陸軍に許された航空部隊の装備はSTOL輸送機・ヘリコプター(回転翼機)に限られた、陸上部隊直協のためのものだった。
しかし1962年には3軍での航空機名称が統一されることになり、ついでに残ったSTOL輸送機も空軍に移管されることが検討された。もちろん「縄張り」を荒らされたくない陸軍は反発したのだが、1967年にはすべて空軍に移管することになった。
このSTOL輸送機は、陸軍ではAC-1(民間名:DHC-4「カリブー」)と呼ばれていた機で、最大335km/h・巡航290km/hを発揮する。AH-56が400km/hもの最大速度を要求されたのは、恐らく当時は陸軍所属だったこの機の護衛も想定されていた為だろう。実際にwikipedia英語版には「最大速度の要求仕様は護衛対象機にあわせて決められた」といった内容の記述が存在する。
そんな訳で、開発途上で護衛対象となる輸送機は無くなってしまい、こうして高速を目指す理由もなくなってしまった。そうなると陸軍に有るのはUH-1、それもAH-1で十分な性能である。
ならばどうしてもAH-56を完成させる理由は何だろう。
飛行性能:自慢の性能も、発揮する場面が無いのでは無意味である。
防弾能力:そもそも高速性能のために皆無である。
武装:AH-1にもTOW搭載はできる。⇒AH-1Q
整備:動力を3分割しなければならないのでは、どう考えても複雑である。
価格:大型機に大型エンジン。どう考えても高価である。
何も残っていなかった。
こうして陸軍の想定がことごとくハズされ、しかも機械的にも不安定で、しかも一番不安なのが主ローターで機動性にも不安な武装複合ヘリコプターは、当然「お蔵入り」の憂き目を免れることは出来ないのだった。
そういえば、そもそもAAFSS計画の要求仕様には防弾性能の項目が無かった。
陸軍は勝手に追加してくれる事を考えてくれると考えたのかもしれないが、ただでさえ低防御力のヘリコプターに高性能を期待して、しかも完全防弾とかムチャを通り越して不可能であった。
軍部:どうしてこうなってしまったのか
シコルスキー:そもそもの要求仕様がムチャクチャもいいところだったから
ロッキード:ゴミを作れと言われればこうもなろう!
・・・ところで最近、ボーイングがAH-64の性能向上案として「アドバンスドAH-64コンパウンド」という計画を発表したが、推進プロペラといい、これはAH-56の亡霊ではないだろうか?
確かにアメリカ陸軍はUH-60からの置き換えにV-280「ヴェイラー」を計画しているのだが、この予定性能を見ると、どうにもAH-64のスピードでは追いつけそうにない。おそらくこの発展機はV-
280随伴用の高速機なのだろうが、果たしてAH-56の過ちを繰り返さないだろうか?それとも、見事に困難を乗り越えて実用に漕ぎつけるだろうか?
これからのボーイングは目が離せないだろう。
競争相手
なお、AAFSS計画で採用を競ったシコルスキーS-67「ブラックホーク」である。
こちらは武装する一方、機内に歩兵を収容できるという、現在でいう強襲ヘリコプターといえるものであった。
AH-56と同様の武装を施していたが、こちらは軽量化のため推進プロペラと尾部ローターを兼ねた設計になっている。つまり、高速になると尾部ローターが90度後ろを向き、推進プロペラになるというわけで、AH-56がまだマシに思えてくる相当なゲテモノであった。
しかしこちらの運動性は機敏であったとされ、AAFSS計画で不合格とされた後も、シコルスキー社内で様々な技術開発に供されたが、1974年のファーンボロ航空ショーにて墜落。搭乗員1名が即死、もう1名も後に死亡した。