概要
当初は冀州牧の韓馥に別駕・騎都尉として仕えていたが、韓馥が袁紹に冀州を譲ろうとすると、他の家臣達とともに諫止したが聞き入れられず、袁紹に冀州を支配されてしまい、沮授はそのまま袁紹に仕えた。
沮授は、袁紹に冀・青・幽・并の四州を平定した上で長安に献帝を迎え、洛陽において後漢の宗廟を復興する戦略を説いたため、その賞賛を受け監軍(実質的総司令官)・奮威将軍に任命され、四州を平定することに成功している。
沮授が袁紹に献帝を迎え入れることを進言したが、郭図や淳于瓊がこれに反対し、袁紹も積極的でなかったため沮授の進言は容れられなかった。
四州を平定して以降、対曹操の戦略について論争が起き、沮授と田豊は持久戦略を主張し、郭図と審配は短期決戦戦略を主張したが、袁紹は最終的に郭図・審配の戦略を支持した。またこの時、郭図が沮授の勢威は強大であると讒言したため、これにより監軍の地位・権限が三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命されることとなった。この他、袁紹は長男の袁譚を青州刺史に任命しようとするが、沮授はこれを禍の始まりであるとして諫止するも、袁紹は聞き入れなかった。
官渡の戦いが始まる直前に沮授は袁紹の敗北を予想し、弟をはじめ一族に資財を分け与えた。戦いが始まると、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良に命じ、白馬に駐屯する劉延を攻撃させた。沮授は「顔良は勇猛であるが、偏狭であるため単独での任務には耐えられないでしょう」と袁紹に進言した。その言葉通り、顔良は呆気なく曹操軍の関羽に討ち取られてしまった。また、袁紹が黄河を渡り延津に向かおうとすると、沮授は病気を理由に軍指揮の辞退を申し出た。このため袁紹は憤然としながらも、沮授配下の軍を郭図に従属させた。
曹操軍が官渡に向かうと、沮授は曹操軍の糧食不足を指摘し、持久戦術を進言したが、容れられなかった。袁紹軍も官渡に赴いて曹操軍と交戦し、当初は有利な戦況を展開した。しかし袁紹軍もまた、曹操軍の攻撃で兵糧補給に難を生じさせることになった。このため袁紹は、淳于瓊に命じて輸送された食糧を守備させようとした。このとき沮授は、淳于瓊に加えて蒋奇に別働隊を率いさせ、守備に万全を期すべきことを袁紹に進言したが、またしても容れられなかった。この結果、淳于瓊が烏巣で曹操に撃破され、これがきっかけで袁紹軍は総崩れとなり、大敗した。沮授は黄河を渡河するのに遅れたため、曹操軍に生け捕りにされてしまった。
曹操は沮授の能力を惜しんで彼を配下に迎えようとしたが、沮授は頑なに拒否し脱走しようとしたため、曹操配下の兵にやむなく処刑された。
後世では、歴史家の孫盛に「田豊・沮授の謀は、古の張良・陳平に匹敵するものである」と讃えている。