この城は月山(がっさん)という山に築かれた山城である。定かではないが平安時代後期にまで起源を遡るほど歴史の古い城であった。
武士の時代になった頃からは歴代の出雲国守護職となった大名たちの居城となり、戦国時代においてはこの城で合戦が行われている。
慶長11年、松江城に移転する形で廃城となった。
概要
山上に本丸があり、山を下りるにしたがって無数の曲輪が配され、麓に城主の居城や家臣の屋敷、外に城下町が広がる典型的な山城である。現在ある遺構(石垣、曲輪、堀切、井戸の痕跡などが残されている)や城の絵図に描かれた姿は江戸時代の堀尾氏(豊臣秀吉時代の三中老の一人、堀尾吉晴に連なる家、孫の堀尾忠晴で断絶した)時代の改築された富田城であり、尼子・毛利氏時代の城の姿は判明していない。
歴史
この城は平安時代末期、平景清が作ったという伝承がある。鎌倉時代には出雲源氏である佐々木氏がこの城に入ったとある。南北朝時代には宇多源氏の佐々木氏(後の京極氏)や山名氏(清和源氏の流れを引き、室町時代には有力な家となっていた家)などが入っている。
戦国時代
この城が本格的に歴史の表舞台に出てくるのは戦国大名となった尼子氏(佐々木信綱の子孫である京極氏から別れ、代々出雲守護代を務めた一族)の本拠地となった時からであるとされる。
尼子氏は出雲守護職京極氏の配下である守護代出身の大名であったものの、尼子経久の時代に追放された。しかし彼は京極氏のお家騒動の隙に富田城に入り、本城を中心に中国地方各地を支配していった。当然富田城も大大名の本拠地に相応しい城に修築され、規模も大幅に拡大したとされる。
尼子氏は隣国の大大名大内氏(百済王の末裔を名乗る、鎌倉時代に御家人となり、大名となるも後期に滅亡する)と幾度となく戦いを繰り広げ、吉田郡山城の戦い(大内氏に従属していた毛利氏当主・毛利元就との戦い、郡山合戦とも)後に大内義隆率いる大軍に包囲され危機(月山富田城の戦い)に陥ったが、篭城と補給へのゲリラ戦などの必死の防戦の末に勝利(なお撤退の際義隆の養子で嫡子の大内晴持が事故死したため、彼が戦から目を背け文弱に走るきっかけとなり、毛利元就および嫡子の毛利隆元は追撃で死を覚悟し、家臣であった渡辺通の活躍により命拾いしたとまで言われている)。
やがて陶晴賢を滅ぼし大勢力となった毛利元就との戦いに突入する。元就の計略によって新宮党(尼子氏一門による親衛隊的な役割を持つ精鋭集団、この城の北麓、新宮谷に居住していたためこの名前がある)と対立が激しくなり、彼らを粛清した、さらに戦争中に当主尼子晴久が急死してしまう。
そのようなこともあり戦争は毛利氏有利に傾いていき、やがて富田城も毛利氏の大軍に包囲されてしまう。籠城軍は決死の抵抗を続けるが食糧が底を付き当主尼子義久は降伏を決意。義久は連行され尼子氏は滅亡した。
その結果富田城は毛利氏の城となり、配下の武将が城代として入り、尼子氏再興を掲げる山中鹿之助率いる残党が奪還を試み攻め入った事もある。やがて城は両川の一人吉川元春が入城し、以降江戸時代まで吉川氏の居城となる。
江戸時代になり堀尾吉晴(当初織田氏の支流に仕えたが後に浪人、豊臣秀吉に仕え信任を得て大名となる)が入城した。この際に近代城郭としての改修を受け、天守台や石垣や櫓などが築かれた。しかし平和な時代となった現状では山城は領国経営に不向きと見られたか、次代の堀尾忠晴(丹波亀山城の天守を破却するように命じられるが、間違って伊勢亀山城の天守を解体したことで知られる人物)は本拠地を新たに築城した松江城に移動したため、この城は廃城となった。
タグとして
pixivでは尼子氏の居城であったため、戦国BASARAなどのイラストが存在したり、城自体を擬人化した御城プロジェクトの城娘、城姫クエストの城姫のイラストが存在する。城自体のイラストも多いほうである。