概要
基本データ
全長 | 1275mm |
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銃身長 | 792mm |
重量 | 4000g |
口径 | 6.5mm |
装弾数 | 5発 |
「日露戦争」において、日本陸軍の主力小銃として使用されていた、三十年式歩兵銃に改良を加えて誕生し、「第一次世界大戦(主に日独戦争)」にて初めて実戦投入された。
以降は日本海軍にも供与され、主力小銃として「シベリア出兵」「満洲事変」「第一次上海事変」「支那事変」「第二次上海事変」「張鼓峰事件」「ノモンハン事変」「第二次世界大戦」などで使用されている。
開発当時は第1級の性能を持つ小銃として世界各国に輸出された。
各部の詳細
従前の三十年式歩兵銃を基に三十五年式海軍銃の開発経験や、日露戦争の戦訓に基づき各部の改良が図られた。
開発指揮は南部麒次郎。
機関部
三十年式歩兵銃と比較して生産性の向上と部品点数の削減が図られた。
ごく初期のものは、高級猟銃にも引けを取らない美しい青色の表面仕上げが特徴だったが、時代が下るにつれて耐久性がある黒色の実用的な仕上げとなった。
- 槓杆
槓杆は三十五年式海軍銃と同様に直線型で先端に繭型の握りがついた。
これにより三十年式歩兵銃より操作性が向上した。
コッキングを行った後に槓杆を完全に下まで降ろさなければ、撃発されない(できない)点が有坂式のボルトアクションの特色である。
- 安全装置
安全装置を操作する為の安全子は円型で手前側に滑り止めの格子状の彫刻が施された。
ごく初期のものは外周に筋状の彫刻が施され、夜間に安全装置の状態を確認する為の突起があった。
やがて、外周に施されていた筋状の彫刻は廃止され、後期型になると安全装置の状態を表す突起は凹みに変化した。
安全装置の解除は被筒や銃握から手を外さずに、右手親指で安全子を押し込みながら左回りに廻せば射撃が可能となった。
- 遊底覆
本銃以降の国産軍用小銃の特徴となる部品である。
日露戦争の戦訓に基づき機関部の防塵の為に遊底覆が付けられた。遊底覆は槓杆の操作と連動して開閉し、三十五年式海軍銃やタイに向けに生産された銃と違って手動による開閉は不要であった。
原則として一丁ずつ念入りに調整されてガタつきが出ないように為されていたが、長期間の使用や他の個体から流用した場合は、携行時や槓杆の操作時に大きな音が鳴る事があった。
特に夜戦や遊撃戦が多くなった南方戦線では、これを嫌って外す者もいた。
照準器
照星は日露戦争の戦訓に基づき、サイトプロテクターが追加された。
照門は、初期型はV字型の谷状で中期型以降は環孔照門となった。
照尺は最大目盛が2200米の個体と2400米の個体があった。
三八式実包
三十年式実包を基に弾頭形状を変更し尖頭弾とした。
弾道特性は極めて優秀で、射撃の際の反動は少なく、なおかつ人体に対して充分な威力を有する高性能な弾薬であった。
そのため、三八式歩兵銃と共に世界各地に輸出され、各国で制式ないし準制式弾薬とされた。
ただし、対物性能は不足気味であったため、軍隊の機械化、自動車化が推進されると共に威力不足が問題化され口径7.7mmの九九式実包とそれを使用する九九式小銃に取って代わられた。
三八式実包は三八式歩兵銃のほか、三八式騎銃、四四式騎銃、装薬を減らした減装弾が十一年式軽機関銃、九六式軽機関銃、九七式狙撃銃に使用された。
銃剣
従前の三十年式銃剣が引き続き使用された。
輸出
武器輸出三原則がある今日とは異なり、外貨獲得や友好国への供与といった形で世界各地に積極的に輸出された。
特に、タイ、メキシコ、ロシア帝国、フィンランド、満州国等が著名な輸出相手国であった。輸出にあたっては、三八式実包を使用するものの他に輸出相手国が指定した弾薬が使えるよう再設計されたものがあった。
また、満州国においてはライセンス品が生産されたほか、中華民国ではコピー品が生産された。
戦後の使用
第二次世界大戦が終了すると直ちに日本軍の武装解除が行われ、東南アジア戦線では三八式などを現地勢力が所持するようになった。のちのベトナム独立戦争(第一次インドシナ戦争)では独立派勢力がこの三八式を使用したとの記録もあり、またベトナム戦争でもベトコンが使用していたという記録がある。
アメリカではコレクターによって発砲可能な個体が多数保存されている。
また、フィンランドにおいて冬戦争後放出された本銃は現在でも猟銃として使われているとか。
銃弾は少数ながらも現在でも海外で生産されている。
評価
泥沼化した中国戦線やクーデター、太平洋戦争等での大日本帝国及び帝国陸軍の凋落を象徴する銃として陰鬱なイメージが付きまとうが、純粋に銃として評価した際には大きな欠点は見られないという意見が一般的である。製造時は国内情勢も良く、九九式小銃の末期型やドイツのフォルクスゲベールのような極端な粗悪品は見られない。
「自動銃相手に不利な戦いを強いられた」という怨嗟の声を除けば、当時の兵士たちの評価は概ね好意的である。(菊の御紋章が入った銃の悪口は言えないというのもあるかも)
時局柄、強力な装薬の使用を求められた九九式小銃と違って反動が少ないために撃ちやすく弾道の特性が良好なために良くあたるため好評であった。
非常に長い全長は好みが分かれるところだが、「白兵戦の際には頼もしい」という声が聞かれる一方で「扱いづらい」という声もあった。
批判
「日本軍は旧式のボルトアクション式小銃を主力として、半自動小銃を主力とするアメリカ軍と戦った時代遅れの軍隊。」という批判もあるが、アメリカ軍自体もM1ガーランドの配備遅延により西暦1942年初期(第二次大戦初中期)まではスプリングフィールドM1903が依然主力小銃であり、第一次フィリピン戦など太平洋戦争初期の戦いではアメリカ極東陸軍がこのスプリングフィールドM1903で日本軍と戦火を交えている。
また、ドイツ・ソ連・イギリス・イタリア・フランスでは一貫してボルトアクション式小銃が第二次大戦における主力である。ボルトアクション式小銃は1900年前後に既に「完成の域」に達した銃火器であり、各国はその時代の小銃をベースに細かな改良を施しながら第二次大戦終戦後まで主力装備として扱っている。ドイツ・ソ連もアメリカ軍同様に半自動小銃を開発・配備したが、ソ連に関しては半自動小銃のトカレフM1940が欠陥だらけでまともに運用できない代物であり、ドイツに関しては半自動小銃のワルサーGew43が主力ライフルのKar98Kを置き換えるほどの数が揃わなかった。
- 背景
第一次世界大戦以降、ドイツやこれに倣った日本においては軽機関銃を歩兵分隊の主力とし、小銃を携行する歩兵はこれを援護するという戦術をとった。即ち歩兵はそれほど大火力を必要としないものとされた。
一方アメリカでは軽機関銃の開発については一歩遅れを取っていたものの、M1918(元々主力小銃として開発されたが分隊支援火器となった)や各種短機関銃や散弾銃など積極的に採用していた点に見られるように兵士一人当たりの火力を増強する方向性であった。
軽機関銃を歩兵分隊の基幹とするドイツ式の場合は、ヨーロッパ平原や中国大陸などの開けた戦場で長距離で撃ち合う場合は有効であったが、ヨーロッパにおける激しい機動戦や南方戦線などの密林での戦闘などで、交戦距離が短く発砲機会が増えた場合はアメリカ式の運用方法が有利となった。