十一年式軽機関銃
じゅういちねんしきけいきかんじゅう
機関銃が本格的に使用された日露戦争で、大日本帝国はロシア軍の機関銃に圧倒されていた。その反省を踏まえて大日本帝国は、国産の機関銃をいくつも開発したが当時は何人かで運ばないといけない大型で大重量の機関銃が主流だった。しかし、第一次世界大戦で小型で軽量の新しいカテゴリーの軽機関銃が登場したことにより、大日本帝国もその時代に乗るために軽機関銃の研究・開発が進められて誕生したのが十一年式軽機関銃である。
最初は満州事変に投入され、第二次世界大戦まで使用された。分隊支援火器のような役割がありそうだが、そのような考慮はしていなかった。
性能
まず注目すべき点は、独特で画期的な給弾システムである。従来は、弾倉や給弾ベルト等が主流であったが、この十一年式軽機関銃は装填架(ホッパー)式の固定弾倉であり、銃弾が三八式歩兵銃と同じため小銃用の五発の挿弾子(クリップ)をそのまま30発分を装填できた。撃つ時は、一人が弾を撃ち、もう一人が弾を補充して使用された。
厳しい現実
軽機関銃の配備は諸外国と比べても早く、そのため各国はその先進性を評価した。
・・・が、いざ、実戦で使用してみると故障や作動不良が日常茶飯事に起きまくっていた。構造が複雑なため悪条件下で使用すると、その画期的な給弾システムがかえって仇になり埃や砂塵等ですぐ故障や暴発が起きて非常に危険だった。使用していた弾薬も変更したため補給も激減した。このように、欠陥が次々露呈して前線の兵士や軍部から多くの不評が相次ぎ、1941年に生産はストップし、新しくて高性能の九六式軽機関銃、九九式軽機関銃が誕生したため、十一年式軽機関銃は前線から姿を消した。
なお、他の日本軍銃火器と同様、十一年式軽機関銃も相当数が鹵獲品として外国(主にアメリカ)に持ち帰られた。稼動状態が維持されている物も多く、研究者やコレクター向けに出回っていると言う。
真実
…というのが以前(20世紀)の定説であった。
21世紀以降研究が進み、給弾システムには何ら問題はなく、弾薬と銃身の不適合による動作不良が原因であることが判明している。
十一年式軽機関銃の弾薬である三八年式実包は、80cm近い長銃身を持つ三八式歩兵銃に適合した弾薬であり、
銃身が44cm程しかない十一年式軽機関銃では過度のマズルフラッシュが発生してしまい、機関の動作不良を招いていた。
これを是正すべく、1938年より専用の減装弾が供給されるようになってからは、前線からの故障報告が激減していることが記録上明らかになっている。
また、十一年式軽機関銃は専用弾倉を必要とせず、現在でも製造されている互換弾薬(6.5mm×50 セミリムド アリサカ)さえあれば発射可能であるためか、現在でも整備された稼働銃が多く残っている。
この互換弾薬を使用した稼働銃の動作は定説に反して非常にスムーズである。
この互換弾薬は技術の進歩により、短い銃身でも過度のマズルフラッシュが発生しない装薬になっており、装薬を減らさなくても本来の性能がでるようになっている。
後継機である九六式軽機関銃は、銃身を55cmに延長するなど改良が加えられているが、
使用する弾薬は十一年式軽機関銃と同じ三八年式実包の減装弾であった。
時系列的には九六式軽機関銃の制式制定(1938年)と同時期に十一年式軽機関銃にも三八年式実包の減装弾の供給が始まっている。
この事実もまた、十一年式軽機関銃の本質的な問題が弾薬と銃身の不適合にあったことを裏付けている。