開発
陸軍の兵器研究工場で1900年台初頭に開発が始まった軽機関銃。
コンセプトは「歩兵一人で取り扱える、持ち歩ける軽い機関銃」。
ちなみに「ショーシャ」とは本プロジェクトの中心人物となったショーシャ中尉から来ている。
第一次世界大戦開戦以前から試作が続けられ、1913年には試験で良好な成績を収めるが、その時点で弾倉の強度不足が報告されていた。しかし、当初は要塞の防御用兵器としての運用を想定されていたため、それについては特に問題視されず開発が続けられることとなった。
ところが1914年の開戦後に状況は大きく変化する。マルヌの戦いでドイツ軍を撃退しシュリーフェン・プランを頓挫させたフランス軍だったが、緒戦の大損害により歩兵の火力向上が急務と認識され、一丁でも多くの機関銃を必要とするようになった。そして白羽の矢が立ったのがこの銃であり、急ぎ足の改良後、1915年にFM Mle1915 CSRGとして軍に正式採用され、1916年より実戦配備となった。
仕様
連発機構にはブローニング式の反動利用方式を採用。
使用弾薬は当時のフランス陸軍主力小銃と同じ、8mmルベル弾を用いる。
8mmルベル弾を半円形の弾倉に20発まで装填可能。
セミ/フルオートの切り替えが可能だった。
扱いやすいようにピストルグリップを装備し、また銃身は簡単に交換できるような設計となっている。
さらに当時最先端のプレス加工を多用し生産性アップが図られた。WW1における総生産数ではルイス軽機関銃やBAR(ともに約5万丁)をはるかに上回り、大戦の終結までに25万丁以上が生産された。
運用
軍の採用の決め手になったのは、とにかく数を揃えられる生産性と銃本体の軽量さだった。ショーシャ軽機関銃の重量は9kgであり、ルイス軽機関銃(12.15kg)やM1909機関銃(12kg)よりも3kgほど軽く、当時フランス軍が必要としていた歩兵に随伴できる機関銃のコンセプトとしてはショーシャ軽機関銃のほうが相応しかった。
この銃が初めて大量運用されたのがソンムの戦いであり、これが戦史上における最初期の軽機関銃が組織的に用いられた戦闘となった。
ショーシャの大量配備により、フランス軍の歩兵には戦術的な革新がもたらされた。小隊や分隊単位で機関銃による突撃支援が行えるようになり、ソンムの戦いで戦術の有用性を確信したフランス軍はショーシャをさらに倍の数を配備するように政府に要求した。
1918年までに、フランス軍の歩兵戦術は旧来のものよりも洗練されたものに変化した。フランスの歩兵は小隊を分割した半小隊を最小戦闘単位とする編成となり、歩兵小隊には小隊長と半小隊長がおり、半小隊長がそれぞれ2つの半小隊を指揮した。フランス軍はこれら半小隊を戦闘群と名付けた。
第1の半小隊は
擲弾兵分隊(伍長、手榴弾擲弾兵×2、手榴弾運搬手×2、ライフル兵×2)
軽機関銃分隊(伍長、ライフル擲弾兵×3、弾薬運搬手×2、軽機関銃手×1)
第2の半小隊は
軽機関銃分隊(伍長、ライフル擲弾兵×3、弾薬運搬手×2、軽機関銃手×1)
ライフル分隊(伍長、ライフル兵×6)で構成された。
敵の機関銃巣に遭遇した場合、まず軽機関銃手が敵の機関銃に制圧射撃を行い、その掩護のもとで他の兵員が敵の射線を避けながら前進し、ライフル擲弾兵と手榴弾擲弾兵が接近距離に応じて敵守備兵に擲弾攻撃を加え、十分に肉薄すれば白兵戦に移行して敵兵を制圧することが想定された。
1995年の『Honor Bound - The Chauchat Machine Rifle』では、ショーシャ軽機関銃手に与えられた勲章を統計的に分析しており、ショーシャが敵の突撃に対する防御や敵機関銃手の排除に効果的に用いられたとしている。
欠点としては、やはり未解決のまま量産にこぎつけられた弾倉の構造の問題であった。
プレス加工は当時はまだ最新の技術だったため、信頼性も当然ながら発展途上であり、何かにぶつけたらすぐに変形して使い物にならなくなる強度の不足に悩まされ、変形しなくても残弾数確認用の窓から泥などが侵入して動作不良の原因となった。
弾倉のバネは生産性を考慮して板バネが用いられたが、通常のスプリングに比べて反発力が弱く、たびたび給弾不良を招いた(そのため、あえて全弾込めずに使用するノウハウが生まれた)。
また、銃身の冷却機構も不完全だった。これは生産性を高めるために主力小銃の銃身を流用したことも影響しており、銃身の過熱による動作不良も頻発した。
その他にも軽量さが却って射撃時の反動を強くしてしまう、連射のレートが遅い(毎分240発)といった短所もあった。
だが、こうした欠点は同世代の軽機関銃によく見られたものだった。イギリスのルイス軽機関銃も、「比較的」故障が少なかったというだけで、銃身の空冷構造の問題から過熱しやすく、下部が解放された弾倉構造の複雑さから土埃の侵入に弱かった。イギリス軍もルイス軽機関銃のこうした信頼性の低さを嫌い、のちにチェコスロバキア製のZB26を国産化して正式採用した。初期の軽機関銃では信頼性が高いとされるBARも、1917年にようやくアメリカ軍で採用が決定され前線での支給が始まったのは1918年夏頃であったなど登場が遅く、フランスが必要としていた時期には存在しなかった。
結局のところ、急造品として多くの欠点を抱えながらも必要なときに必要な性能をもち数を揃えられるショーシャ軽機関銃以外の選択肢は当時のフランス軍にはなかったのであり、ある意味戦場に恵まれた銃だったと言える。
フランス軍でもショーシャ軽機関銃の欠点は認識されており、1917年に専用の銃身が作られ、1918年には汚れに強い密閉型の弾倉のテストが行われたが、終戦後の1924年には後継のFM mle1924/29軽機関銃が採用された。
余談
対独戦
奇しくもショーシャの採用年と同じ1915年に、ドイツでもMG08を軽量化したMG08/15の開発が進められていた。MG08/15は機関銃の火力をより簡便に前線に送り出す目的で設計され、1917年から戦場に出現するようになり、ショーシャやルイスと熾烈な撃ち合いを行った。しかし、重量は18kgもあり運用人員への負担は大きく、また生産数は約130,000丁とショーシャの半分程度にとどまった。命中精度は良いものではなく、布製の弾薬ベルトは水気で傷みやすく給弾不良の原因となった。それでも依然としてMG08シリーズは連合軍歩兵にとって最大の脅威の一つだった。
フランス軍のショーシャの大量配備に衝撃を受けたドイツ軍はMG08/15の配備と訓練が果たされるまでのつなぎとしてマドセン軽機関銃やベルグマンMG15nA軽機関銃の配備を行った。マドセンの調達数は約500丁、MG15nAの調達数は約5,000丁だった。だがMG08/15の配備が間に合ったため、発注されたMG15nAの大部分は東部戦線に送られた。また、ドイツ軍歩兵が鹵獲したショーシャを使用することも珍しくなかった。出典(The Resurgence of Infantryの項)
銃の開発史における位置
戦後、欧州では軽機関銃の重要性が認識され、戦間期において列強各国の軽機関銃の開発と採用ラッシュが到来し、ショーシャ軽機関銃がもたらした戦術の先駆性は証明された。
ロシアの銃設計者フェドロフはフランス視察の時ドイツ兵の突撃を薙ぎ倒すショーシャ軽機関銃の活躍を目の当たりにし、その経験を"アフタマート"M1916やDP28軽機関銃の開発に繋げるなど、後の銃開発にも影響を与えた。
半円型弾倉の理由
8mmルベル弾は、1886年にフランスで導入された当初は、世界で初めて無煙火薬を採用したライフル薬莢として戦場に革命をもたらした。黒色火薬と違い邪魔になる煙を出しにくく、燃えカス汚れも少なく、飛躍的に増した燃焼速度から弾道特性も見違えるほど改善された。1898年には新設計として、弾丸の空気抵抗を減らすために世界で初めてボートテール型の弾が採用された。このボールD弾は1901年以降に仏軍で一般化した。
だが8mmルベル弾は弾倉式の連発銃での使用には難があった。薬莢のリムはやたらと大きく、しかしやけに先細りする極端な形状のため、それを収める弾倉は異様に長くならざるを得なかったのだ。また弾倉内での収まりも悪く、弾同士のズレが給弾不良の原因となった。ショーシャの弾倉に空いた大きな窓は、ずれた薬莢を直すためのものというのが実情だった。
ショーシャの開発段階で8mmルベル弾の欠点は指摘されていたものの、新弾薬を開発するコストの高さや、かつての8mmルベル弾の活躍を過信した上層部によりゴリ押された結果、ショーシャは巨大な弾倉を抱えることになったのだった。
(もっとも、無煙火薬薬莢の先駆者だったフランスでさえこのありさまなのであるから、20世紀初頭におけるマシンガンの弾倉と薬莢デザインの問題はどこの国も手探りの状態であった。)
低評価のミーム化
ショーシャ軽機関銃は特にアメリカでの評価が低いことで知られるが、当時アメリカの要求に合わせた無理な改良(スプリングフィールド弾を使用できるよう改造したが、急ごしらえゆえ薬室の設計を誤っていた。これもブローニング自動小銃同様M1918という名があるためややこしい)が祟っている面は否めないところがある。
また、WW1末期のムーズ・アルゴンヌ攻勢では、アメリカ軍はドイツ軍陣地への攻撃で死傷者122,063名もの甚大な損害を被ってしまったのだが、英語圏の銃解説では、ショーシャの欠点を過剰にあげつらうことでアメリカ軍の失態(そもそも自動火器の生産と配備に遅れが生じていたことや、欧州戦線の実態を軽視し全体的に兵士の訓練が不足していた等)を相対的に矮小化する傾向がいまだに根強いことは注意する必要がある。
さらに現代では、テレビ番組『ガニー軍曹のミリタリー大百科』(2009年7月31日放送分"機関銃")において、R・リー・アーメイ軍曹が本銃を試射した(上記の問題もあり4発で弾詰まりが発生した)後に「フランス人はやっぱり料理を作っていたほうがいい」だの「送り返したくなる」だのと酷評した様がある種のエスニックジョークとしてステレオタイプ化してしまったことも影響していると思われる。
関連動画
出典記事:8mm M1915 Chauchat Fixing and Range Testing
投稿者は無可動実銃として譲渡されたショーシャを当局の許可を得て稼働状態にし、2018年に試射を行った。弾倉は当時のものが使用されたが、4つ中3つが良好に動作するという結果が得られた。投稿者は弾倉が100年以上前のものということを考慮し「想定以上の結果」とした。
このような弾倉の選別作業は、WW1当時のフランス軍でも行われた。
関連イラスト
関連リンク
Les Passerands et le fusil-mitrailleur Chauchat, mars 1916-1918
Le fusil-mitrailleur de 8 mm CSRG modèle 1915
The Chauchat Light Machine Gun: Not Really One of the Worst Guns Ever