生涯
古代中国の戦国時代末期、沛県郡豊県中陽里(現在の中華人民共和国江蘇省徐州市沛県)に劉を姓とする農家の三男坊として生まれたが家業には関心を示さず気ままに侠客暮らしを楽しんでいた。
後に泗水というところの亭長(駐在所長的存在)となるが、仕事はさっぱりしていなかった様子。とはいえなぜか妙に人望だけはあったので、クビにされそうになると決まって周囲から庇われおとがめ無しになるのであった。
秦末期の混乱の中で地元で挙兵。項羽らの楚軍に従い、秦の首都咸陽を攻略する。戦後、漢中に王として封ぜられる。
その後項羽と対立、楚漢戦争に突入。何度も大敗したがその度に踏みとどまり、紀元前202年、垓下の戦いで最終的に勝利し中原統一を達成。皇帝に即位し漢(前漢)を建国した。
即位後は諸侯との対立・反乱に忙殺され、紀元前195年に首都長安で崩御。廟号:高祖。
その王朝は短期間の断絶を挟み前漢・後漢として約400年以上存続することになる。
人物
同時代を席巻した英雄項羽のライバルだが、彼とは正反対と言って良い人物であった。
圧倒的な軍才とカリスマで周りを引っ張るタイプの英雄であった項羽と違い、劉邦はとかく頼りなく女にもだらしないダメ人間すれすれの男であった。
だが、劉邦には叩いても減らない人間的な魅力があった。粗野で下品ではあったが同時に素朴で素直な人間であり、人の助言をちゃんと聞ける器の持ち主であった。彼の元に優れた人材がひっきりなしに集まってきたのも「この人を助けたい」と思わせる魅力があったからであろう。
また、優れた人材を適材適所に配置し遺憾なく使いこなせる人事のスペシャリストであった。個性の強い配下たちを思う存分活躍させることが出来たのも、劉邦の差配の成せる技であったといっていいだろう。信賞必罰を徹底し、気っぷ良く配下に恩賞を与えるところも好かれる要因であった。
漢楚合戦において項羽に何度も敗れた劉邦であったが、辛抱強く勢力を拡大し民衆の支持を集め、人材を幅広く収集し地力を高め続けた結果、最後の最後に項羽を打ち負かす事が出来た。
ちなみに彼は大変な漁色家であり、「英雄色を好む」ということわざの語源となった。
中華を統一し漢帝国を開いた後は次第に猜疑心の虜になってゆき、かつての功臣たちを次々と粛清してしまった。
主な配下
蕭何…漢の三傑筆頭。劉邦の本拠地をよく治め、前線への補給を支えた宰相。
張良…漢の三傑。常に劉邦の身辺にあって勝敗を決する献策を続けた名軍師。
韓信…漢の三傑。上将軍(全軍指揮官)。魏、趙等を滅ぼした名将。
陳平…呂氏一族のクーデターを阻止した人物。
夏侯嬰…血統的には曹操の先祖にあたるとされる。
逸話
- 酒場で「つけにしてくれ」と言って無銭飲食をした事もあったが、彼が入り浸ると満員御礼になるので許されていた。伝説では彼の頭上に神聖な龍がいたとも言われる。
- 項羽と戦った際に父の劉大公を人質にされた時に「キサマの父上を煮殺してしまう」と恫喝された時には、怯みながらも「お前とオレは義兄弟だったからオレの親父はお前の父。その時には親父のスープをオレにもくれ」と言い返した。
- 亭長時代に夫役を命じられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かったが秦の厳しい刑罰と労役を嫌って大半が逃げてしまった。ヤケになった劉邦は残りの人夫も解散させて山奥に籠もって山賊になった。しかし、彼を慕って各地から人が集まり、何時しか一角の勢力に成長してしまった。
- 皇帝時代、側室と情事をしているときに部下が報告に来た際に、戯れでその部下を押し倒して「どうだ?俺をどう思うね?」と聞いたとき「とんでもない暴君です!まるで殷の紂王(伝説的暴君)です!」と返されて「そこまで言うこと無いだろ!」と怒ったが、部下の素直さを評価して重用した。
関連タグ
漢 呂雉(正室) 項羽(宿敵) 劉備(云われはかなり怪しいものだが、末裔の一人と称している)
関連作品
史記(司馬遷/横山光輝) 項羽と劉邦(司馬遼太郎/横山光輝) 赤龍王(本宮ひろ志)
三國志シリーズ…隠し武将としてほぼ登場している。