概要
生没年 保延元年(1135年)~正治2年(1200年)4月26日
生涯
妻の母が源頼朝の乳母であったことから、最も古くから頼朝に仕えたことで知られる。
小野田兼広が父と伝えられているがはっきりとせず、治承4年(1180年)、頼朝が平家打倒の兵を挙げると、馳せ参じた豪族の多くが平氏、源氏の末裔であることから、彼らに格下に扱われていたと思われる。
とはいえ、頼朝の信頼は厚く、平家追討に功を上げた異母弟・範頼・義経兄弟が没落した後も側近く仕え、元暦元年(1184年)頃には上野国奉行人に任じられたほか、三河国守護にも任じられた。
正治元年(1199年)正月、頼朝の死をもって出家したが、河内源氏の家督を継いだ頼家が乱行の限りをつくしたことにより実権を剥奪、公文所別当・大江広元、北条時政・義時父子ら13人の有力御家人とともに合議制をとることとなった。
正治2年(1200年)4月26日死去、嫡男・景盛が秋田城介となり、代々世襲することとなった。
盛長死去後の安達氏
嫡男・景盛は娘を第3代執権・北条泰時の嫡男・時氏に娶せることにより第4代執権・経時・第5代執権・時頼兄弟の母とすることにより家格を高める。さらに嫡子・義景や孫の泰盛を叱咤し三浦氏当主・泰村(義村の次男)を族滅に追い込み筆頭御家人にのし上げた。泰盛も8代執権・時宗に妹を娶せて第9代執権・貞時の時代に実権を握ったものの霜月騒動で平頼綱に敗れ安達氏は壊滅する。しかし「平禅門の乱」で頼綱が討たれると復権し最後の得宗・北条高時の時代に内管領・長崎円喜・高資父子とともに実権を握った安達時顕らを輩出し、最後は鎌倉幕府滅亡に殉じた。