曖昧さ回避
本記事では両者ともに解説する。
都市開発思想としての「田園都市」
一般的には田園風景が色濃く残る市街地、またはいわゆるニュータウンとして既存市街地の外側である郊外で計画的に開発された緑地の多い市街地を指す。
後者の特徴として主に住宅街としての機能を重視しており、元々その地にあった自然環境や田畑の一部を公園や近郊農業団地として適度に残し、大きさや形状、風景のバランスの取れた分譲地や公道、街路樹の整備などが挙げられる。
その歴史としては、1898年に英国の都市計画研究家のエベネザー・ハワードにより提唱された都市開発思想に始まる。
当時産業革命により深刻化していた都市部に住む労働者の劣悪な生活環境を改善するための対策の一つとして、インフラや就職の場が整った都市部と自然・衛生環境が整った農村部の要素を併せ持つ、緑豊かな職住近接型の新たな都市形態として構想された。
1903年にロンドン北部のレッチワース市近郊にこの思想に基づく新市街地が初めて開発され、世界各地にも波及していった。
日本でも大正期に田園都市構想が到来し、実業家の渋沢栄一らによって1918年に後述する田園都市株式会社が設立。
戦後は大都市の郊外で大規模なニュータウン開発・再開発が行われており、「ワークライフバランス」を意識した移住者やその誘致活動も目立つようになっている。
関連項目
田園都市株式会社
東京府東京市荏原群(現在の東京都品川区・目黒区・大田区・世田谷区一帯)に上記の都市としての「田園都市」(特にニュータウン型のそれ)を拓くべく、1918年に渋沢栄一らによって設立された企業。
当初は「財力はあるが都市開発は素人」という財界人ばかりが集まるとても営利企業とは言い難い状態であったが、箕有電車(現在の阪急電鉄)専務として大阪府北部での宅地開発の実績を有していた小林一三をアドバイザー(実態は実質的な経営者)として招聘した事によりまともな都市開発を開始する事となった。
同社によって洗足田園都市(現在の洗足駅周辺)や田園調布の住宅開発が行われ、国内における初のモデル地域になったとされる。
また、同時にアクセスルートとなる鉄道路線建設も進めようとしていたが、やはり経営陣が素人だらけであったため建設がままならなかったため、多忙な小林に代わり、当時東京―横浜間にインターアーバンを計画していた武蔵電気鉄道(のちの東京横浜電鉄)という会社から常務の五島慶太が経営に参加、子会社として目黒蒲田電鉄を設立し鉄道事業を主導していくことになる。
田園都市株式会社は1928年に宅地予定地の開発をあらかた終えた事から目黒蒲田電鉄に吸収合併され同社田園都市部となった。
現在の東急株式会社・東急電鉄・東急不動産はこの田園都市株式会社・目黒蒲田電鉄の後継企業であり、戦後の「多摩田園都市」(おおむね東急田園都市線梶が谷駅~中央林間駅間の沿線)をはじめとする東急グループによる都市開発はこの田園都市株式会社の事業が起源とも言える。