概要
慶長5年(1600年)6月から7月にかけて、東北地方にて発生した戦役の一つ。
当時の豊臣政権の筆頭格でもあった徳川家康と、会津の上杉景勝との対立に端を発して引き起こされたもので、この少し後に上方にて発生する関ヶ原の戦いにも繋がる出来事の一つとしても数えられる。
一般的には、豊臣秀吉亡き後の天下を狙う家康による、競合勢力の排除の一環との見方が強い会津征伐であるが、実際のところはそこまで単純な話という訳でもなく、征伐中止後に発生した慶長出羽合戦などからも窺えるように、以前からの上杉氏と周辺勢力との対立・確執なども複雑に絡んだ問題とも言える。
また上杉氏が、あくまでも領国経営に執着するという従来の戦国大名の性癖を克服できず、中央における体制の変化やそれへの対応の軽視、そしてそれに伴う政策の優先順位の錯誤を生んだことが、会津征伐を起こされる結果に繋がったと見る向きもある。
背景
徳川家康の台頭
慶長3年(1598年)の太閤・豊臣秀吉の薨去により、彼が遺した豊臣政権は大きな岐路に差し掛かることとなった。
後継者の秀頼はまだ幼く、政権運営は秀吉の生前に定められていた「五大老」「五奉行」を中心に、所謂合議制という形で執り行われることとなる。その五大老の中でも、徳川家康は伏見城において政務を取り仕切ることを、前田利家は大坂城において秀頼の傅役を務めることが遺言されており、これら10名の中でも抜きん出た存在として見られたいた。もっとも、この五大老・五奉行制の実態については実際にそう呼ばれていたかについても含め、未だ研究・考察の余地がある点にも留意すべき必要がある。
その五大老・五奉行制は、秀吉薨去直後より既に様々に波乱を含んだ状態にあった。前出の徳川家康は、程なくして政権下で禁止されていた大名同士との姻戚関係を無断で結ぶという動きに出ており、理由はともあれその行為を専横と看做された家康は、利家ら他の大老・奉行らと対立を深める事態に陥っていた。
一方で、五奉行の一人で家康の「専横」を指弾する側にあった石田三成も、文禄・慶長の役での査定などに対する不満から、福島正則ら諸大名との間でやはり対立状態にあり、家康・三成も含めた政権内での様々な対立を、前田利家が調停し抑えることで辛うじて一応の安定が保たれていたのである。
しかしその利家も秀吉薨去から1年足らず後、慶長4年(1599年)に逝去すると、その直後には三成が諸大名より「訴訟」を受けるという事態が発生。その結果として三成が奉行職を解かれ自領に蟄居となったことは、必然的に政権内での家康の影響力が増大する格好となった。
家康はこの後、伏見から大坂へ移って本格的に政権運営に取り掛かる一方、同じ五大老であった毛利輝元や宇喜多秀家、利家の跡を継いだ前田利長を各々の領国へ帰させるなどしており、事実上家康による単独支配体制が構築されていくこととなる。
上杉景勝の動向
ここで五大老の一人である、会津の上杉景勝の動向についても触れていく。
景勝は元々五大老には含まれておらず、本来その立場に入るはずであった小早川隆景が没したことにより、後からその一員に加えられる格好となっていたが、この景勝もまた様々な火種を抱える状態にあった。
そもそも上杉氏が会津を領するようになったのは、秀吉薨去の数ヶ月前のこととなるのだが、そのような状況ゆえに領国運営も万全とは言い難く、景勝は慶長4年8月に領国に帰還すると、交通や支城の整備を進めるとともに、阿賀川畔に新たな城(神指城)を築城させるなど、本格的な領国運営に着手していく。
しかしその過程での、軍備の増強や浪人の招集といった動きは、周辺の諸大名からの警戒視を必然的に招くことにも繋がった。そもそも最上義光とは、長年庄内地方を巡って不倶戴天の間柄にあり、伊達政宗は自身が実力で制した会津を、奥州仕置にて手放した末に上杉に持っていかれる格好となっていた。上杉氏の会津移封後に、その旧領である越後に入った堀秀治に至っては、移封の際に年貢の持ち出しなどを巡って深刻な対立状態にあり、これら諸大名は家康に対し、上杉に不穏な動きありとの訴えを起こすに至ったのである。
これらの訴えに加え、上杉・徳川間を取り持っていた藤田信吉らが、直江兼続らとの反目の末に上杉家中から追放されるに至り、この状況を看過できかねるものと見た家康は景勝に対し、これらの件についての申し開きを行うべしと勧告、さらには問責使を遣わすなど再三に亘って上洛を促した。
こうした上洛勧告に対し、上杉側は前述した訴えは讒訴であり、領内の整備についても他意や逆心は全くないとして、上洛を拒む姿勢を示した。その際家康に送られたとされる直江兼続の筆による返答、即ち「直江状」の挑発的な内容が、家康の怒りを買ったとも伝わっているが、その書状の真贋については現在でもなお確定を見ていないことに留意すべき必要がある。
ともあれ、このような形で上洛勧告が拒否されたことにより、家康は諸大名を動員の上で会津への征伐を決するに至った。時に慶長5年(1600年)5月、秀吉薨去からわずか2年足らずのことのである。
征伐の経過
家康が会津征伐を決して間もなく、関東の諸大名に対してもその陣触れが出され、6月16日には討伐軍が大坂より会津に向けて進発を開始した。東海道を経由して家康が江戸に入ったのは半月後の7月2日のことで、さらに半月の逗留の後まず徳川秀忠(家康の三男)率いる軍勢が会津へ派遣され、家康率いる連合軍もまた程なくその後を追う形で江戸を発っている。
対する上杉側も、神指城の普請を中断して領内の防備に当たるなど、討伐軍との全面対決の構えを着々固めつつあった。さらに、兼続の主導により北陸方面からの攻撃を阻むべく、旧領の越後に残留していた家臣、それに在地の国人ら親上杉勢力を扇動し、越後国内で軍事蜂起を引き起こさせるという動きにも出ている(上杉遺民一揆)。
この会津防衛に際しては、常陸の佐竹義宣との連携の元、白河口にて討伐軍を挟撃するという計画も立てられていたとされるが、そのために築かれたとされる防塁の遺構の年代比定への疑問や、計画について触れられた史料の内容に他のそれとの矛盾が見られることなどから、計画の実存には否定的な見方も存在する。
また、後述の奉行衆による決起と呼応し、家康を東西から挟み撃ちとするという計画に至っては、そもそも一次史料で確たる裏付けがある訳でなく、後世にて成立した軍記・逸話集などにしか登場しない話であり、さらにこの当時両者間の交信経路が確立されていたとは言い難い状態であったことから、現在ではほぼほぼ虚構であろうと見られている。
事ここに至り、不可避と思われていた討伐軍と上杉側との全面対決はしかし、この間上方にて発生したある出来事により、直前にて思わぬ幕切れを迎えることとなる。
奉行衆の決起
家康が未だ江戸に逗留中であった7月半ば、上方に残っていた三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)らは、五大老の一人である毛利輝元に大坂入りを要請。さらに家康のこれまでの違背の数々を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付の上、家康に対し決起に及んだ。やはり五大老の一角である宇喜多秀家や、蟄居の身で討伐軍に加わらなかった石田三成らも、この決起に同調している。
この事態を前に、家康は会津征伐を中止した上で、今後の対応をどうすべきか考える必要に迫られた。7月23日に家康は最上義光に対し、雑説を理由として会津への侵攻は無用との指示を出しており、また黒田長政らを始め、家康とともに上方から会津に向かっていた諸大名もまた、7月末には相次いで西進に転じている。家康自身は、結城秀康(家康の次男)率いる軍勢を会津への抑えとして残しているものの、その後も去就定かならざる佐竹氏への懸念などから江戸に留まっており、上方へ進発したのは9月に入ってからのこととなる。
これに関連して、25日に下野小山にて家康と諸大名により軍議が開かれ、会津征伐中断後の対応を決したとされる「小山評定」は有名であるが、これについてもやはり一次史料で裏付けがある訳ではない。
いずれにせよ、討伐軍が西進に転じたことにより、上杉側との直接の武力衝突は一応回避される格好となった。しかし、東北の諸大名も相次いで自領に引き上げる中、なおも最上義光が対立姿勢を崩さなかったこともあり、後顧の憂いを絶たんとする上杉との間で新たな武力衝突が発生することとなる(慶長出羽合戦)。
関連タグ
徳川軍
徳川家
など
徳川と同盟
加藤清正(征伐には不参加) 福島正則 黒田長政 山内一豊 藤堂高虎 伊達政宗 最上義光
など
上杉軍
上杉家
など