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ヒカルイマイの編集履歴

2023-11-14 05:22:07 バージョン

ヒカルイマイ

ひかるいまい

日本の競走馬。サラ系ながら1971年のクラシック二冠を制した。

概要

日本の競走馬

サラブレッド系種ながら1971年の皐月賞東京優駿を制し、二冠馬となった。


プロフィール


略歴

1968年

3月27日、北海道静内町(現在は新ひだか町)の農家で生まれた。父・シプリアニは日本軽種馬協会所有の種牡馬、母・セイシユンはサラブレッド系種(牝系に血統不明の牝馬ミラがいた)で現役時は地方競馬で4戦未勝利。母父・ヴィーノーピュローはアルゼンチン生産。

家の裏に放され、まるで手をかけられずに育った。


1969年

セリに出されたが売れず、精肉業者のトラックが引き取りにきたタイミングで鞆岡達雄が購入を申し出た。評価額は200万円だったが鞆岡は「肋骨が1本陥没している」とケチをつけて50万円値切り、更には「半額は新馬戦に勝ったら改めて支払う」と75万円しか払わなかった。


1970年

栗東の谷八郎厩舎に入厩。基礎的な馴致すらされていなかったため、まずはを置くところから始まった。ヒカルイマイは人馴れしておらず気性が荒く、他馬との交流が無かったせいか極端に馬群を嫌った。

10月11日、田島良保騎手を鞍上に京都競馬場の新馬戦(芝1200m)でデビュー。全く期待されていなかったが、凄まじい末脚を見せ1着。鞆岡は生産者の中田次作に残りの75万円を支払った。

10月25日、なでしこ賞(100万下)に出走し1着。

11月14日、京都競馬場のオープン戦に出走し1着。

11月29日、京都3歳ステークス重賞初挑戦。シバクサの2着に敗れた。

12月26日、阪神競馬場のオープン戦に出走しヒデオーギの2着に敗れた。


1971年

1月24日、シンザン記念に出走しフイドールの4着に敗れた。

2月7日、さざんか賞に出走しシングンの2着に敗れた。

2月21日、きさらぎ賞に出走し1着。田島騎手は馬群を嫌うヒカルイマイの性質から、後方待機策を採る事とした。

3月27日、中山競馬場のオープン戦に出走しコーヨーの2着に敗れた。

4月11日、スプリングステークスに出走しメジロゲッコウの4着に敗れた。

5月2日、皐月賞に出走し直線一気の差しで1着。八大競走初勝利。

5月23日、NHK杯に出走し1着。

6月13日、東京優駿に出走し最終直線で27番手からの一気の差しで1着。28頭も出走していたため後方待機策のヒカルイマイには不利かと思われたが、まるで問題にしなかった。秋競馬へ向けて休養に入る。

9月11日、札幌競馬場のオープン戦で復帰。体調が万全ではなくオンワードガイの3着に敗れた。

10月24日、京都新聞杯に出走しニホンピロムーテーの9着に敗れ、初めて掲示板を外した。その後は菊花賞を目標に調整されていたが屈腱炎を発症し休養に入る。馬主の名義貸し疑惑などがあり、復帰は先延ばしにされていく。


1974年

復帰できないまま引退。


1975年

大栄牧場新冠町)で種牡馬となるが、サラブレッド系種なのが嫌われ種付け数は少なかった。


1979年

ニルキング牧場鹿児島県大崎町)へ移動。牧場代表の服部文男食肉業も経営していたため、ヒカルイマイが馬肉にされるのではと危惧したファンたちが「ヒカルイマイの会」を結成して真意を質しに行く騒ぎがあったが、服部はヒカルイマイを種牡馬として成功させるため手を尽くした。「ヒカルイマイの会」も種牡馬生活のための積立貯金をして支援した。


1992年

7月21日、心臓麻痺によりニルキング牧場で死亡(24歳)。


関連タグ

71世代 競走馬 サラブレッド系種 二冠馬

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