プロフィール
生没年:天文3年(1543年)〜文禄2年(1593年)
通称:弥七郎
諱:親泰
官途名:内記→安芸守
概要
国親の命により、甲斐源氏の流れを汲むとされる一族であり、当時土佐七雄と呼ばれた豪族の一つである香宗我部氏当主・親秀の養子になり香宗我部氏を継承する。
父亡き後は次兄の親貞や叔父の国康や親吉らと共に長兄・元親を支えた。
1569年、香美郡夜須の領有権を巡る安芸国虎との戦いで国虎を撃破し安芸城にて自害に追い込み(安芸城の戦い)、戦後安芸城主となる。親泰は安芸姓を称することを考えたが家臣の池内真武に諌められ思い留まり安芸守を称した。その後は元親に従い、阿波国海部城を拠点に阿波平定に尽力し1579年には新開道善の富岡城を奪取した。また1582年には本能寺の変後に発生した四国攻めを画策していた織田信長の死により空白地となった阿波をめぐる戦いで十河存保軍を破る(中富川の戦い)など、元親の片腕として四国統一に貢献した。
ただし豊臣秀吉による四国征伐においては阿波国牛岐城にいたものの木津城が豊臣軍に落城させられたため撤退している。また、交渉の結果富岡城を得たり、織田家に使者として赴いたり、柴田勝家や徳川家康などと通じたり外交の分野において相当に活躍し、長宗我部一族の発展に力を注いだとされる。四国討伐において長宗我部一族は土佐一国となったものの、秀吉配下の大名としての存続は許された。
しかし、朝鮮出兵で長男・親氏が病死(戦死とも)してしまう。そして親泰本人も病死( 暗殺も疑われる)した。享年51。
香宗我部氏は次男の貞親が継ぎ、先述の親秀の甥である中山田泰吉が後見した。貞親は関ヶ原の戦い後に従兄弟の長宗我部盛親共々改易されたがその後は寺沢広高や堀田正盛に仕え正盛が徳川家光に殉死した後も、その子の正信に仕え1660年に没した。
余談
- ちなみに家紋は長宗我部本家と違って甲斐武田家のものと同じ割花菱である。
- 親泰の死は嫡子・信親を失い精彩を欠くようになった元親を補佐あるいは諫言できる人物がいなくなり、滅亡を早めたという説がある。
創作
殿といっしょ
CV:平川大輔
画像の黒髪の方。父親似。幼少期からブラコンのケがあり、それを危惧した父・国親から養子に出されていた。
帰国後、周囲の教育のせいで男の娘と化した長兄・元親(画像の白髪の方)の事を亡父同様鍛え直そうとするも、気が付けば一両具足共々元親ファンクラブの幹部になってしまった。その体たらくから土佐で唯一元親に萌えない次兄・親貞からは「ヘンタイ」「使えねえバカ」呼ばわりされている。
親貞が勝手に決めた元親の婚姻には最後まで反対していたが、妻(石谷氏)及び息子・弥三郎に萌えたせいでスッカリ忘れ去っている。
関連項目
吉良親貞:兄(国親次男)