概要
1969年から2011年までリビアの最高指導者だった政治家・軍人・革命家。
フルネームは「ムアンマル・アル=カッザーフィー」。日本では「カダフィ」「カダフィ大佐」で知られていた。
なぜ「大佐」と呼ばれているのかは諸説あり、名誉職としての大佐とも、一種の愛称ともいわれている。(リビアでは最高元首の職は設けていない)
生涯
青年期
1942年に砂漠地帯のベドウィンの子として生まれた。軍人となり、成長したカダフィは王朝打倒を画策。1969年に同志を集めてクーデターを実行し、成功させて政権を掌握。革命指導者会議を設置し、自ら議長となった。
リビアの指導者へ
1973年にイスラム教、共産主義、民族主義を融合させた独自思想「ジャマーヒリーヤ=直接民主制」を生み出し、これに基づく体制作りを進め、思想をまとめた『緑の書』を執筆。1977年に人民主権確立を宣言し、ジャマーヒリーヤを政治指導理念として本格導入。1986年に国号を「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改めた。
汎アラブ主義を掲げて、周辺のアラブ各国・イスラム圏との関係を強めた。一方で反米・反イスラエルの姿勢を続け、欧米各国との対立が続き、そのためのテロ事件への関与、暗躍の疑いも多い。
冷戦後は国内外への政策で緩和的になっていき、欧米との関係改善を図るようになり、アメリカからも経済制裁やテロ国家指定を解除することとなった。また「汎アラブ」から「汎アフリカ」へと路線を変えていき、アフリカ各国との関係強化を図った。
最期
2011年、隣国チュニジアのジャスミン革命成功に端を発した「アラブの春」がリビアにも及び、反政府運動が活発化し、政府軍と反政府軍による内戦が勃発。首都を反政府軍に制圧され逃亡。行方をくらましていたが、逃亡中に反政府民兵と交戦し、民兵によって殺害された。享年69歳。
人物
公的資金を思うままに使い贅沢三昧、反体制派を徹底弾圧した独裁者。公式の場でも過激な発言を繰り返したことから「アフリカの狂犬」と称された。一方で、石油利権で得た利益をインフラ整備などで国民に還元。またアフリカ各国や中東諸国の調停者を自負し、周辺国の紛争の和平交渉や仲介も積極的に担い、敵対するアメリカや西側諸国の元首であっても場合によっては称賛し、親しく会話するなど、硬軟織り交ぜた独自の外交路線を展開しており、重要人物として一目置かれる存在であった。
自身が砂漠の民ベドウィン出身ということから、贅沢はしつつもテント暮らしに異様なこだわりをもっており、国連会合に出席する際もニューヨークにわざわざテントを持ち込むなど、あらゆる面で変わった人物であった。
余談
『ゴルゴ13』のエピソード・「フグの季節」においてカダフィ本人が登場。
ゴルゴ(デューク・東郷)にイスラエルの武器商人マインベルグ暗殺を依頼しているが、会談場所がトリポリ郊外の砂漠のテント。さすがのゴルゴも「あんたの命を狙っている者が多いのに、不用心すぎる。」と呆れられている。