スコーピオンズ
すこーぴおんず
ドイツのロック界の黎明期から活動を続け、'70年代には日本でも人気を確立。ベルリンの壁が崩壊した1990年のアルバム、「クレイジー・ワールド」発表以降はハードロック/ヘビーメタルの枠を超えた重鎮となっている。
1965年、ハノーファーでルドルフ・シェンカーを中心にバンドが結成される。
1971年、ルドルフの弟、マイケル・シェンカーの在籍した「コペルニクス」が解散。マイケルとクラウス・マイネが「スコーピオンズ」へ加入。
1972年、デビュー・アルバム「恐怖の蠍団」を発表。
「UFO」等ビッグネームの西ドイツ・ツアーの前座に抜擢され、当時17歳だったマイケルのギター・プレイが注目を集める。失踪したミック・ボルトンの代わりにマイケルは「UFO」に移籍。
1973年、マイケルが抜けたため、バンドのメンバーは堅気の職に就くために次々と脱退。ルドルフ独りとなるが、ロック・フェスで演奏する契約が残っていたため、ウリ・ジョン・ロート(ウルリッヒ・ロート)のバンド「ドーン・ロード」の協力を仰ぐ。これがきっかけでルドルフは「ドーン・ロード」に加入。
1974年、ショー・ビジネス界に出戻ってきたクラウスも加わり、RCAレコードとの契約を得、バンド名は知名度のある「スコーピオンズ」を使用する事になる。
「電撃の蠍団」を発表。
1975年、「復讐の蠍団」を発表。日本ではこれが初発売アルバムだったが、早くも人気バンドとなった。
1976年、「ヴァージン・キラー」を発表。アルバム・ジャケットの少女ヌードが問題となる。
1977年、「暴虐の蠍団」を発表。制作後にウリは脱退する事になっていたが、「ヴァージン・キラー」販促のための日本公演の依頼が来たため、メンバーに説得されて同行する事になる。
1978年、東京、名古屋、大阪での公演は大盛況。この模様はライヴ・アルバム「蠍団爆発」として発表された。
ウリ脱退後、後任ギタリストの人選は難航するが、地元ハノーファーでルドルフの後輩だったマティアス・ヤプスを加入させる。「UFO」から脱退したマイケルもバンドに復帰。
1979年、ヨーロッパ・ツアー中に具合が悪くなったマイケルが脱退。
ベスト・アルバム「蠍団伝説~スコーピオンズ・ベスト」を発表。
1980年、「電獣~アニマル・マグネティズム」、ベスト・アルバム「蠍団帝国~スコーピオンズ・ベスト2」を発表。
イギリスでのNWOBHMムーブメントを機に、引く手数多となる。
1981年、喉を潰したクラウスが1年間の静養。バンドも休止。
1982年、「蠍魔宮~ブラックアウト」を発表。全米アルバム・チャートで10位まで上昇し、アメリカでの成功を掴む。
1984年、「禁断の刺青」を発表。
1988年、「サヴェイジ・アミューズメント」を発表。
1989年、チャリティー・アルバム「メイク・ア・ディファレンス」に参加。
1990年、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一される。
「クレイジー・ワールド」を発表。シングル・カットされた「ウィンド・オブ・チェンジ」は全米シングル・チャート4位を記録。
1993年、「フェイス・ザ・ヒート」を発表。
1995年、ライヴ・アルバム「ライヴ・バイツ」を発表。
1996年、「ピュア・インスティンクト~蠍の本能」を発表。
1997年、ベスト・アルバム「蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ」を発表。
1999年、「アイ・トゥ・アイ」を発表。
2000年、ハノーファーで開催されたEXPO2000のテーマ曲を担当。
「栄光の蠍団~モーメント・オブ・グローリー」を発表。
2001年、アンプラグド・アルバム「アコースティック・ライヴ」を発表。
2004年、「反撃の蠍団」を発表。
2007年、「蠍団の警鐘」を発表。
2010年、制作中の次回作が最後のアルバムで、その販促ツアーが最後のツアーになる事を表明。
「蠍団とどめの一撃」を発表。ツアーが長びき、解散は撤回される事になった。
2015年、「祝杯の蠍団 リターン・トゥ・フォエヴァー」を発表。