概要
主な勝ち鞍はナショナルブリーダーズプロデュースステークス(1900年)など。
呼吸器疾患を持っていたためイギリスの生産者たちに敬遠され、アメリカに渡って種牡馬として成功した。
プロフィール
略歴
1898年
ユーステイス・ローダー少佐が所有するエアフィールドロッジ牧場※(アイルランド)で誕生。
※エアフィールドロッジ牧場は後に、世紀の名牝プリティポリーを生産することになる。
父のアイシングラスはイギリス三冠馬。母のアストロジーは5戦未勝利だったが、繁殖牝馬の父として当時人気だったハーミットの仔だった。
生まれて間もなくウイルス性疾患で生死の境をさまよったが、ダン・マクナリー厩務員が付きっきりで看護し、回復することができた。
スターシュートは美しく見栄えがする馬に育ったが、脚部不安があった。
1900年
アメリカで成功し、当時イギリスで活躍していたジョン・ハギンズ調教師に預けられた。
6月6日、マンチェスター競馬場のサマーブリーダーズフォールズプレートでデビュー。プリンセスメルトンの2着に敗れた。
6月14日、アスコット競馬場のニューステークスに出走し、ベイメルトンの3着に敗れた。
6月23日、サンダウンパーク競馬場のブリティッシュドミニオン2歳プレートに出走し初勝利。
6月30日、ハーストパーク競馬場のハーストパークフォールプレートに出走し1着。
7月、サンダウンパーク競馬場のナショナルブリーダーズプロデュースステークスに出走し、イアンと同着の1着。
しかし、この後は体調を崩し勝てなくなる。ダービー競馬場のチャンピオンブリーダーズビエンナーレフォールステークスで着外に敗れ、ニューマーケット競馬場のミドルパークプレートではフロリフォームの3着に敗れた。
1901年
6月、アスコット競馬場のトリエニアルステークスで復帰し、着外に敗れた。
7月、ニューマーケット競馬場のミッドサマーダービーに出走し、着外に敗れた。競走生活を引退。
エアフィールドロッジ牧場に帰り種牡馬になる予定だったが、呼吸疾患を持っていること、脚の弱いこと、スターシュートの属する9号族は名種牡馬の出ない牝系とされていたことなどからイギリスの生産者からは敬遠され、アメリカへ輸出される事となり、ラニーメードファーム(ケンタッキー州)へ移動。
1902年
ラニーメードファームで種牡馬として供用を開始。
1904年
初年度産駒が大成功をおさめる。
1911年
アメリカのリーディングサイアーとなる。その後、1912年・1916年・1917年・1919年もリーディングを獲得。
1912年
ジョン・エドワード・マッデンに買い取られ、ハンバーグプレイスファーム(ケンタッキー州)へ移動。
1919年
11月19日、肺炎により死亡(21歳)。
主な産駒
ウィングティング ケンタッキーボー アンクル スターチャーター エディーエム ウィストフル フェアリーワンド サーバートン オーダシアス グレイラグ