嚮導駆逐艦「タシュケント」
ソ連海軍がOTO社(イタリア)に発注して建造された20И型嚮導駆逐艦。ソ連国内で同型艦3隻を建造する計画だったが、動力機関等のパーツ入手が困難なため中止され、同型艦は建造されなかった。
イタリア製だったため「イタリヤーネツ」(イタリア人)、船体が大きく、コバルト・ブルーに塗装されたため「空色の巡洋艦」と呼ばれた。艦内に余裕があり、荷物を積むスペースが広く取られていた。
「タシュケント」の設計はイタリア海軍のカピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦に流用された。
艦歴
1935年1月11日起工、1937年11月28日進水、1939年5月6日竣工。
1939年10月22日、ソ連海軍に引き渡された。オデッサ港での初期訓練の後、バルト海に配備される予定だったが第二次世界大戦勃発により回航不可能となり、黒海で運用。
1941年6月22日、独ソ戦が勃発。「タシュケント」はニコラーエフ港で入渠していたが、翌日、セヴァストポリ港へ向けて出港。オデッサの戦い(8月~10月)では物資輸送と艦砲射撃を行った。
8月30日、ルフトヴァッフェによる空襲を受け、1t爆弾が船尾で爆発し船体の半分が水没。セヴァストポリ港へ戻る。
10月、バトゥミ港で修理を行う。11月に戦線復帰。セヴァストポリ港へ物資を輸送し、ドイツ軍への艦砲射撃を行う。
11月25日、時化に遭い、700t近い過載が祟って波を被り甲板に亀裂が入るが出撃を続ける。12月末に修理完了。
1942年6月27日、セヴァストポリがドイツ軍に包囲され、ソ連軍は撤退を決定。「タシュケント」は難民約2,300人、絵画、物資を載せ、輸送船団の殿に付く。午前9時よりルフトヴァッフェの爆撃機が襲来し、「タシュケント」は爆弾336発を回避したが、午後5時、1t爆弾が左舷付近で爆発。缶1つを損傷し、船体にヒビが入る。その後、ソ連戦闘機隊がドイツ軍爆撃機を追い払い、ノヴォロシースクから迎えに来た駆逐艦「ソオブラジーテリヌイ」へ海上で難民や物資等を移す。午後8時にノヴォロシースク港へ到着。
7月1日、ノヴォロシースク港で修理中の「タシュケント」をセミョーン・ミハーイロヴィチ・ブジョーンヌイ元帥が訪問。「親衛」の称号が授与され、艦長はレーニン勲章を受章、全船員はソビエト連邦国家賞を受賞。
7月2日、ルフトヴァッフェの空襲によりノヴォロシースク港内で着底。76名が死亡。その後戦線復帰は叶わなかった。
9月6日、ドイツ軍がノヴォロシースクを占領。
1943年9月16日、ソ連軍がノヴォロシースクを奪還。
1944年8月、ようやく浮揚される。ニコラーエフ港へ曳航され、1946年より解体。
タシュケントの勇姿は街の人々にも記憶され、「タシュケントを思い出せ!」という掛け声もできるほどだった。
性能諸元
最大の特徴は最速の42ノット。13万馬力は高雄(重巡洋艦)と同クラスである。
全長 | 139.7m |
基準排水量 | 2881.5t |
機関 | ヤーロウ式重油専焼缶×4 オルランド式蒸気タービン×2 2軸推進 |
最大出力 | 130,000hp |
最大速度 | 43.5kn |
航続距離 | 5,030浬/20kn |
兵装 |
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乗員 | 250人 |
擬人化キャラクター
戦艦少女の「タシュケント」
ソ連海軍の嚮導駆逐艦「タシュケント」を擬人化したキャラクター。塔什干。
関連タグ
- Ташкент⋯タシュケントのキリル文字表記。