概要
分断されたドイツ
1945年、ナチス・ドイツの崩壊後に連合国によって占領下に置かれたドイツは、そのまま冷戦に突入し、アメリカ・イギリス・フランスの占領地域とソ連の占領地域に分断されてしまった。首都であったベルリンも東西に分割され、1948年にはベルリン封鎖によって第三次世界大戦の一歩手前になるなど、東西冷戦の最前線であることがあらわになった。
1949年5月、西側陣営の占領地域がドイツ連邦共和国(首都ボン)として、10月には東側陣営の占領地域がドイツ民主共和国(首都東ベルリン)として独立した。
西ドイツは、朝鮮戦争特需や欧州経済共同体への加入など西欧諸国との協調によって、1950年代末には「経済の奇跡」と呼ばれる大躍進を起こし、ヨーロッパのみならず世界有数の経済大国となった。
対する東ドイツも「社会主義の優等生」と呼ばれるほど(東側陣営としては)経済成長を遂げたが、西ドイツに比べるとさしたることはなく、特に西ドイツが高い経済成長を成し遂げた1970年代以降は、エーリッヒ・ホーネッカーを首班とする長期政権による経済停滞が続き、その格差は年を追うごとに大きくなっていった。
東欧革命とベルリンの壁崩壊
1985年、ソビエト連邦書記長となったミハイル・ゴルバチョフによる「ペレストロイカ」政策の始まりは、守旧派のホーネッカーにとっては受け入れがたいものであった。しかしペレストロイカのあおりを受けたドイツ以外の東欧諸国では、非共産党による政権樹立が起こるなど民主化運動が次々と起こっていた。この様子を見た東ドイツの市民たちによるデモ活動も1989年から激化し始め、さらにゴルバチョフがホーネッカーを見限ったことによって、1989年10月17日にホーネッカーは国家評議会議長を解任された。
11月9日、ドイツ分断の象徴だったベルリンの壁崩壊に伴い東から西への亡命者はうなぎのぼりとなり、東ドイツの通貨・東ドイツマルクも価値が10分の1以下に暴落し、もはや「社会主義の優等生」の姿は影も形も存在しなかった。
東西ドイツ統合
それでもホーネッカーの後継となったエゴン・クレンツ、その後継となったハンス・モドロウ政権は、民主化政策によって東ドイツ存続を図っていたが、西ドイツへの経済援助要請は拒絶され、1990年3月に建国以来初めて行われた自由選挙によって西ドイツの支援を受けたドイツ統合派が勝利をおさめたことで、東西ドイツの統合と東ドイツの消滅は決定的となった。
こうして1990年10月3日、西ドイツが東ドイツを編入することで、現在のドイツ連邦共和国が改めて成立した。
関連タグ
国:ドイツ、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ドイツ民主共和国(東ドイツ)
ドイツ帝国ー最初のドイツ統一。
ナチス・ドイツーナチス政権下のドイツ。