概要
イラクのクウェート侵攻に対抗して発生した、反イラクキャンペーンの一つ。ニューヨークの広告企業ヒル・アンド・ノウルトンが、クウェート大使館傘下の広報組織から資金提供を受けて展開したキャンペーンの一環である。
実際の証言は1990年10月10日、トム・ラントスが率いる人権委員会に於いて行われた。ナイラと名乗る少女は「イラク兵は残虐でクウェートの病院に攻めてきて赤ちゃんを皆殺しにした」と証言したが、実は彼女は一度もクウェートに行ったこともない駐米クウェート大使の娘であり、証言の内容はでっち上げであったわけだが、この証言は慎重な検証を待たずして大々的に公開されてしまい、米世論の誘導に一役買ったと見られている。
ちなみにこのような捏造報告は謀略宣伝として湾岸戦争に限らず行われている。
例えば第二次世界大戦時でも、ドイツ占領下のベルギーにおいて、ドイツ兵によりベルギーの子供が虐げられているという報道がされた。これはアメリカの介入を促すべくフランスの諜報機関が流したプロバガンダであったが、これを受けて介入へと世論が動き出したという見解もある。
こういった事は政府主導だけでなく民間でも行われる事があり、ドイツにより家が焼かれ家族を失った赤ん坊が居ると捏造し報じた民間の報道機関もある。
弱者の犠牲をダシにして感情論に持ち込むのは、戦争に限らず事故や災害などなど、あらゆる報道の定石である。
感情に任せた過激な対応の呼び水となることもある一方で、感情に押されることにより有意義な改革に繋がった事例も多々ある。
また虚偽の情報が流布されたという点についても、戦争という一般の法や倫理とは根本的に乖離した事象に関する分野においては、情報の秘匿や捏造は日常的に行われていることである。その功罪はこの記事で論じるには余る題材であろう。
しかしながら、ある国が別の国の世論を直接的に操作した可能性があるという点で、この事件は貴重な教訓を与えている。
影響
軍事作戦に対する具体的な影響はほとんど存在しない。
砂漠の盾作戦が発動したのは2か月前の8月、米軍は既にサウジアラビアに展開しており、10月にはイギリス軍、フランス軍などを加えた多国籍軍が既に集結を済ませている。
攻勢作戦の検討も8月から始まっており、実際に砂漠の嵐作戦が発動したのは証言から僅かに3ヶ月後の1月17日である。証言は軍事的決断に影響を与えるには遅すぎた。
一方で世論への影響力は定かではないが、1990年8月時点では大半が「制裁の成果を待つべき」となっていた世論調査の結果が、その後数ヶ月で大きく変化したのは事実である。