ミッレミリア
みっれみりあ
そもそものきっかけは、1899年に行われたカーレースがイタリア北部の都市ブレシアを通過したことからとされ、以降ブレシアではレース熱が高まるあまりに1904年には独自開催によるブレシアサーキットを開催するほどであった。
そんな中の1927年、スポーツジャーナリストのジョヴァンニ・カネストリーニ、銀行家の息子フランコ・マッゾッティ伯爵、レーサーのアイモ・マッジ伯爵、同じくレーサーのレンツォ・カスタニェートの4人によって、ブレシアをスタートしてローマまで南下、再びブレシアまで戻ってくるという公道スピードレースとして企画されたのが「ミッレミリア(イタリア語で1000マイル)」であった。
第一回大会は1927年3月26日、雨の降る中を13時にスタート。参加者は外国人2名を含む77名、55台が完走し22台がリタイアしたが、大会は大成功を収めた。
以降、各国の自動車メーカーはル・マン24時間レースと今大会の優勝のために鎬を削るようになる。
1938年の大会中、ボローニャに於いてランチア・アプリリアが観客の中に突っ込み、子供7人を含む10名が死亡、23名が負傷する大事故を起こした。当時の大統領ムッソリーニは、公道レースを一時禁止した。
しかし、中止は1年のみで1940年に再開される。その背景には第二次世界大戦があり、イタリアおよびその同盟国であったドイツによる、自国の工業力を示す国威高揚のためという向きがあった。
ただし、戦争が徐々に激化し始めたため、翌1941年から終戦後の1946年まで開催は再び中止となった。
1947年より再開。各国の新興メーカーが多数参加するようになり、より盛り上がりを見せるようになる。
1957年、スペインのアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵のフェラーリ335Sが、マントバを3位で通過中、突然にタイヤが破裂。時速240kmで走行していたフェラーリはスピンしながら観客の中へ飛び込み、アルフォンソとコ・ドライバーのエドムンド・ネルソン、および子供5人を含む観客9人が亡くなる大事故となった。
これにより、イタリア政府は大会の開催中止を命じ、本来のミッレミリアは終焉を迎えた。
しかし1977年、当時参戦していた実車とその同型車(レプリカ除く)のみが参加できる、嘗てのルートを通過するスタンプラリーとして復活。以降はクラシックカーラリーイベントとして、1991年以降はアメリカ、1992年以降は日本ででも開催されるなど各国でも大会が催されるようになった。