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概要

本名:リチャード・ウェイン・ペニマン(1932年12月5日~2020年5月9日)

アメリカ合衆国歌手ピアニストチャック・ベリーファッツ・ドミノらと共にロックンロールの創始者の一人とされる。

代表曲は「トゥッティ・フルッティ」、「のっぽのサリー」、「ルシール」、「リップ・イット・アップ」、「ジェニ・ジェニ」など。

1962年の復帰後は開き直ってオネエキャラになる。

奇抜なファッションやメイクに鉛筆髭というルックスはプリンスに模倣された。

ビートルズはリトル・リチャードの復帰コンサートの前座を務めてアメリカでの人気を確固たるものとし、その際にポール・マッカートニーは歌唱法について教えを受けた。

来歴

1932年12月5日、ジョージア州メイコンで父チャールズ、母レバ・メイの間に誕生。祖父と叔父はバプテスト教会説教者で父チャールズも教会の執事を務めていたが、リチャードの同性愛の事で諍いが絶えなかった。

1946年、シュガーローフ・サムミンストレル・ショー一座に加わり、「リトル・リチャード」の芸名でステージに立つ。

1949年、ドクター・ハドソンのミンストレル・ショー一座に加わる。

1951年、RCAビクターから「エヴリ・アワー」でデビュー。全く売れなかった。

1952年、父チャールズが殺害される。

1954年、メイコンに戻り、バス・ステーションのレストランで皿洗いをして暮らす。エスケリータのダイナミックなピアノ演奏に影響を受ける。

1955年、スペシャルティ・レコードからリリースしたシングル「トゥッティ・フルッティ」が100万枚を売るヒット。その後も次々とヒットを放つ。彼の曲は白人所有のラジオ局では放送禁止だったが、パット・ブーンエルビス・プレスリーがカバーし、人種の壁を超えたファンを獲得する。ガソリンスタンドの係員に車の中での性行為を通報され逮捕される。

1957年、オーストラリア・ツアー中に火の玉(後に人工衛星スプートニク1号と判明)が上空を飛んでいくのを見てキリスト教に回心。引退を発表し、オークウッド神学校アラバマ州)に入学。

1958年、リトル・リチャード福音主義チームを結成し、アメリカ全土を伝道して回る。

1959年、アーネストティン・ハーヴィンと結婚。

1962年、ドン・アーデンの要請でゴスペル歌手としてヨーロッパ・ツアーに出掛け、前座のサム・クックのパフォーマンスにロックンロールへの情熱を取り戻し、復帰を決意。これを観たブライアン・エプスタインがビートルズを前座に使うよう求め、ニュー・ブライトンイングランド)のステージから参加させた。バス・ステーションのトイレで男性と性行為をしたとして逮捕される。

1964年、「バーマ・ラーマ・バーマ・ルー」がヒット。アーネストティン・ハーヴィンと離婚。

1970年、「フリーダム・ブルース」がヒット。牧師叙階される。

1977年、友人ラリー・ウィリアムズが銃を持って現れ、麻薬の代金を払わないと殺すと脅した。麻薬やアルコールへの依存を反省し、牧師に戻る。

1984年、母レバ・メイが死去。

1985年、テレビ・ドラマ特捜刑事マイアミ・バイス」の撮影中、運転する車が電柱に激突して重傷。

1986年、ロックンロール・ホール・オブ・フェイム(ロックの殿堂)が設立され、殿堂入りするが、前年のケガで出演できなかった。

1992年には、来日公演が予定されたが、告知不足でチケットがわずか50枚しか売れなかったために中止となってしまった。

1993年、グラミー賞の功労賞を受賞。

1994年、テレビ・ドラマ「フルハウス」に出演。

2006年、GEICO保険コマーシャルに出演。

2013年、老齢による衰えから引退。

2020年5月9日、骨肉腫により死去。

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