生涯
1860年、ロンドンに生まれる。
美術学校を卒業後、新聞の挿絵画家として活動を始める。当初は様々な動物や田園風景などを写実的に描いていたが、ガンを患った妻のためにピーターと名付けた猫を飼いはじめたことをきっかけとして、猫の絵を多数描くようになった。
1886年、画報のクリスマス企画として見開きでウェインの猫の絵が掲載されると大きな反響を呼び、一躍人気画家となった。この作品は、擬人化された沢山の猫がパーティーを開く様子を複数の場面に分けて描いたものである。以降四半世紀に渡りウェインは膨大な数の猫の絵を描き、彼の作品は絵葉書や画集、子供向けの絵本となりイギリスの人々に愛好された。生粋の愛猫家であったウェインはこの頃、愛猫家クラブで会長を勤めたほか、複数の猫保護団体の活動にも関わっていた。
しかし、第一次世界大戦が近づく頃には人気に陰りが出始め、またウェイン自身ビジネスや版権に疎かったことから、生活は困窮していった。再起のためアメリカに渡り三年間そこで活動したが、経済状況はより悪化してしまった。
その後ウェインは妹を相次いで亡くし、自身もバス事故により入院するなど不幸が続いた。次第に彼は心を病み、虚言や暴行が目立つようになる。1924年、ウェインは精神病院に入院し統合失調症と診断された。
入院後、仕事として絵を描く必要が無くなってからもウェインは猫の絵を描き続けた。二度転院をした後、1939年に78歳で亡くなった。
作風
初期
初期のウェインの作品は写実的表現が中心だった。初期の擬人化された猫は、書き物やゲームをするなど人間らしい行動をとっているが、多くは猫らしく四足で歩き、服を着ている者はいない。
人気猫画家時代
時代が下るとウェインの猫は目が大きくデフォルメされた顔になり、より表情豊かになった。猫たちは二足歩行となり、流行の服を着ているものも多い。
絵の題材は当時のイギリス文化を反映しており、猫たちが人気の娯楽やスポーツに興じる様子が明るくユーモラスに描かれている。ウェインはレストランなどにスケッチブックを持ち込み、実際の人々を猫に置き換えて描くことで、より人間らしい猫たちを生み出した。風刺が込められた作品も多い。
晩年
統合失調症を患い始めたころから、ウェインは抽象的な幾何学模様と多くの原色を取り入れた作品を描きはじめる。彼は引き続き猫をモチーフとした作品を描き続けたが、その中には極端に抽象化された図案のようになり、猫の原型をとどめていないものも多い。
後に晩年のウェインの作品8点を発見した精神科医により、入院後のこの特徴的な画風は病の進行によるものと考えられた。この8点の作品は病状の変化を示唆する順に並べられ、精神病理学の教科書でも紹介されるようになった。
しかし、実際にはこれらの作品には日付が付されておらず、紹介された時系列順にウェインが描いた証拠はないことに注意が必要である。晩年の幾何学的な作品は、職業画家ではなくなったウェインが、生家の家業であった織物の模様に着想を得て自由に創作した結果であるという考えもある。
なおウェインは最晩年にも、抽象的ではない従来の作風での作品も残している。
エピソード
・1917年、ウェインの猫・ピーターを主人公とした短編アニメが制作され、ウェインが原画を描いた。これは史上最初に公開された猫アニメであったが、フィルムは見つかっていない。
・1924年当初にウェインが入れられた病院は劣悪な環境であったため、彼を救済するための基金が立ち上げられた。この呼びかけには当時のイギリス首相や、SF作家のH・G・ウェルズも加わっており、この義援金のお陰でウェインは環境の良い病院に転院できた。
・夏目漱石はウェインが人気絶頂であった頃にイギリス留学をしており、『吾輩は猫である』には、ウェインの作品と思われる絵葉書が届く場面がある。
備考
今日のネット上では、ウェインといえば擬人化された猫よりも晩年の幾何学的な作品の方が有名である。統合失調症のエピソードとも相まって、人によっては狂気や不安感を感じさせるものとして、しばしば彼の名前が検索してはいけない言葉に挙げられることもある。「ルイス・ウェインっぽい」という感想は、大抵の場合はサイケデリックで幾何学的な作品に向けられている。