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本名:レイモンド・ダニエル・マンチャレク・ジュニア(1939年2月12日~2013年5月20日)


概要編集

ロックバンドドアーズ」の中心人物の一人でキーボードを担当。

ドアーズはジム・モリソンを世に出したいと思った彼がメンバーを集めて結成したバンドであった。

配偶者は日系アメリカ人のドロシー・アイコ・フジカワ。


略歴編集

1939年2月12日、シカゴイリノイ州)で誕生。彼の一族は1890年代にポーランドから来た移民であった。

1956年、聖"カッシアのリタ"ハイスクールを卒業し、デポール大学商学部に入学。ジャズ・バンドを組みピアノを担当した。

1960年、経済学の学士号を取得しデポール大学を卒業。

1961年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の大学院に入学するが、中退してアメリカ陸軍に入隊。信号隊(USASC)を希望していたが、エリート集団のアメリカ陸軍保安局(ASA)に配属された。

1962年、UCLAに復学。大学ではジム・モリソンやフランシス・フォード・コッポラと同級生であった。兄のリックが作ったバンド「リック&ザ・レイヴンズ」でキーボーディストとして活動した。

1965年、映画撮影学の修士号を取得し、UCLAを卒業。夏にロサンゼルスヴェニスビーチでジム・モリソンと再会。モリソンの住む廃ビルに遊びに行き、ポエトリーリーディングを聞いて衝撃を受ける。ニューヨークに行くつもりだったモリソンを引き留め、ドアーズを結成してボーカルに据える。


1966年、ドアーズの初期ラインナップが固まり、ベーシストがいないためマンザレクが右手でVOXのコンチネンタル・コンボ・オルガンを弾き主旋律、左手でフェンダーのローズ・ピアノを弾きベースラインを担当した。ドアーズはエレクトラ・レコードと契約。

1967年、1月にアルバム『ハートに火をつけて』をリリースしてドアーズがデビュー。モリソンのカリスマ性でセンセーショナルな人気を得た。UCLAの同窓生、ドロシー・アイコ・フジカワと結婚。

1968年、『太陽を待ちながら』のレコーディングよりオルガンギブソンG-101になる。

1971年、パリフランス)で休養中のモリソンが急死。残ったメンバーでドアーズの活動を継続するも、1972年に解散。


1973年、息子パブロが誕生。

1974年、マーキュリー・レコードと契約し、2枚のソロ・アルバムをリリース。

1977年、「ナイト・シティ」を結成し2枚のアルバムを残す。翌年に解散。

1980年、パンクバンドX」のアルバム『ロサンゼルス』をプロデュース。1985年まで4枚のアルバムのプロデュースを担当した。

1983年、『カルミナ・ブラーナ』(作曲:カール・オルフ)をシンセサイザーで演奏したソロ・アルバムを発表。

1998年、ドアーズの回想録『ハートに火をつけて』を出版。しかし、ジョン・デンズモアが事実誤認を指摘し二人の関係が悪化した。

2002年には、ロビー・クリーガー等と「21世紀のドアーズ(The Doors 21st Century)」として活動を始めた。「ジョン・デンズモアは耳鳴りで不参加」と発表されたが、デンズモアが「最初から呼ばれていない」として、2003年にバンド名使用差し止めの訴訟を起こす。

2005年、デンズモアの主張が認められ、ロサンゼルス上級地裁がバンド名使用差し止めの決定を下した。このためバンドは「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」に改名。その後、何度か改名が繰り返され、「マンザレク・クリーガー」に落ち着いた。


2006年、トランペッターピョートル・バルと「レイ・マンザレク&バル」を結成し、アルバム『Atonal Head』をリリース。

2009年、アル・ヤンコビックのドアーズのパロディ曲『Craigslist』にキーボードで参加。

2013年、3月に胆管と診断され、特別な治療を受けるためドイツに渡航しローゼンハイムの病院に入院。死期を悟ったマンザレクはデンズモアと和解した。5月20日、死去。


関連タグ編集

洋楽 キーボーディスト ドアーズ

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