概要
亀寿姫こと島津亀寿は、島津家16代当主の島津義久とその妻である円信院殿(種子島時尭の娘)の間に生まれる。
1586~87年に島津家は、豊臣政権の惣無事令に違反したとして、豊臣軍と九州全土で激しい戦いを繰り広げるも敗れ、最終的には降伏することになった。(九州征伐)
亀寿はその恭順の証として、京都に人質として送られる。
1589年には、父義久には男児が居なかった為、義久の弟である義弘の次男にしてて事実上の島津家の後継者候補である久保の正妻として嫁ぐ。
1593年に久保は朝鮮出兵のさなか病で陣没したため、豊臣秀吉の命で義弘の三男忠恒が後継者とされ、忠恒に嫁ぐ。
忠恒とは不仲且つなかなか子供が出来なかったが(あるいは忠恒があえて作ろうとしなかったとも)、義久や義弘らに寵愛を受けていた亀寿は、1599年に計7000石の土地が与えられており、島津家後継者の正妻として一定の地位を持っていたようである。
1600年には、徳川家康が上杉景勝を征伐しに伏見から離れたすきに石田三成が挙兵し、家康に組する大名の牽制として人質にされかかるも、家老平田増宗が次女とすり替えたことで危機を脱し、船で大坂から脱出し薩摩へ帰還する。
ここまでは忠恒に嫌われるだけで、順風満帆とはいかずとも、それなりの待遇を受けていた亀寿だが、1611年に父であり後ろ盾であった義久が病死すると、忠恒から凄まじい冷遇を受ける。
忠恒にとって亀寿は単に不仲というだけではなく、家中における忠恒ではなく全当主である義久を重んじる派閥の牽制並びに粛清、島津家では慣例化していた一夫一妻を否定による藩主の集権化を図るという政治的意図もあったとされる。
義久が亡くなると手始めに、亀寿は居城を追放された挙句、忠恒は8人もの側室を囲い込み62歳で亡くなるまでに33人の子供を産ませ、子供が生まれる度に当てつけのように使いをよこすという嫌がらせを受ける。
さらには国分城という城に軟禁され、仕送りを止められたことで蠟燭が買えない程の困窮生活を送った。
1630年に「家宝を、忠恒ではなく光久に渡すように」と自分に付き従う家臣に銘じて、泣きながら亡くなったという。
享年齢60