伊藤律
いとうりつ
来歴
幼少期から神童の誉れが高く、1930年に第一高等学校を四修で入学する。1932年6月に共産青年同盟に加盟し9月に退学処分を受ける。1933年に日本共産党入党。同年5月に検挙され懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受ける。その後、1939年に南満州鉄道に入社。東京支社調査部嘱託となり、尾崎秀実に重用される。しかし1939年に再度検挙、1941年に再々度検挙され、この間拷問を受け自供、ゾルゲ事件発覚の発端となった情報を特高に与えたといわれる。
1942年12月一審判決があったが上告、1943年11月再審判決で懲役3年未決通算260日となり、東京拘置所に服役。
1945年8月26日に仮出獄。1946年に徳田球一のもとで政治局員となり、ナンバー2の実力者として共産党再建に従事。1950年6月GHQ公職追放で地下に潜行、武装闘争路線に走り火炎瓶闘争などを指導、この間死亡説、米国亡命説など諸説流れたが、実際は1951年秋、中国に密航し徳田、野坂参三らといわゆる北京機関に合流し活動していた。ここで日本向けの地下放送・自由日本放送の指導にあたった。1953年、徳田が病気で倒れると「スパイ」として日本共産党から除名され、徳田が死去すると罪状も言わずに投獄された。
1955年以後消息不明となって死亡説が定着し、1965年に日本の公安当局も死亡したとして捜査を打ち切った。しかし、文化大革命終了後、中国は喬石の決断で伊藤の釈放に乗り出す。1980年8月23日、中国政府は伊藤が中国で生存していることを発表した。伊藤は27年ぶりに釈放され、9月3日に伊藤は29年ぶりに帰国した。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていた。伊藤投獄は日本共産党幹部であった野坂参三の意向だったと報じられた。これに対して日本共産党はほとんど黙殺に近い反応を示した。
昭和史の裏面を知る生き証人として、ゾルゲ事件の真相や戦後の共産党の武装路線などについての証言が期待されたが、沈黙を守ったまま1989年に死去した。