八九式重擲弾筒
はちきゅうしきじゅうてきだんとう
十年式擲弾筒の後継であり、1929年(皇紀2589年)に採用、1932年から終戦となるまで製造された。
本来迫撃砲は、前線よりある程度はなれた位置から攻撃する兵器ではあったものの、榴弾砲より場所をとらず運搬のさいの機動性も高かったため、登場からまもなく戦場ではなくてはならないものになっていた。
しかし、いくら榴弾砲より小型と言っても、運搬、設置、観測、砲撃と運用は数人がかりで行わなくてはならず、即応性にはやや欠ける面も持っていた。
日本軍が開発、採用したこの擲弾筒の運用人数は一人であり、さすがに通常の迫撃砲より威力や射程には劣っていたものの、ジャングルの中でゲリラ戦を展開していた日本兵にとっては手榴弾より遠く飛ばせるこの擲弾筒は使い勝手が大変よく、高い評価を持って迎えられた。
なお世界初かは微妙なところでイギリスのSBML 2インチ迫撃砲などの「個人が携行・運用可能な支援火器」は八九式以前から存在している。
照準器こそなかったものの、慣れれば即効力射可能という芸当もできたほどであり、相手の米兵を大いに苦しめたのであった。
射程距離の調整は砲身下部にあるダイヤルを回して撃針を上下移動させることで調整可能であったが、実際には角度で調整されることが多かった模様。
本来は小型の迫撃砲で地面や岩に置いて曲射する兵器であるが、熟練者は大木などに駐板(地面に乗せる部分)を当て、水平射撃でも使いこなしたという。
一見すると迫撃砲弾とは思えないような独特な形状をした弾薬を使用する。
スプレー缶のような形状をしており、落とし込む発射される迫撃砲とは違い装填後にトリガーを引くことで発射している。
一般的な迫撃砲弾と違い安定翼を持たないが、推進薬の燃焼ガスを底部の8つの穴から噴出することで推進、同時に燃焼ガスで砲弾の銅帯を砲身内の旋条に押し付けることで発射ガスを逃がさないと共に砲弾に回転を与えることで安定して飛翔する構造となっている。
また八九式榴弾の八八式信管は発射後に解除されるものが多い迫撃砲弾と違い、安全ピンを抜くことで衝撃で作動するようになる構造のため、榴弾を地面に埋めて板をかぶせることで地雷としても使用された。
衝撃で作動するということは逆装填や二重装填の際には非常に危険であった。
かの舩坂弘氏は敵が近距離に迫った際、安全ピンを抜いて手榴弾代わりに投げまくった経験を自著に記している。
通常の手榴弾より遥かに高い威力と轟音(火薬量は十年式手榴弾の3倍)に、米兵も驚いて逃げ出したとのことだが、当然ながら想定外の使い方であり、舩坂氏の屈強な肉体でさえ脱臼した。
一般的な手榴弾の重量は500g程度だが八九式榴弾は約800gもあり、威力が大きい上に手で投げても遠くへ飛ばずに自分自身が爆発に巻き込まれる恐れがあるため通常の人間は絶対に真似をしてはいけない。(同等の重さの三式対戦車手榴弾は麻束が付いており、遠心力を付けて投げられるようにしてある。ちなみに通常の手榴弾での話であるが、沢村栄治は従軍中に手榴弾を投げすぎて肩を壊したという)
前身となった十年式擲弾筒同様に十年式や九一式といった擲弾筒に対応した手榴弾を使用することも出来たが、推進薬の燃焼ガスが逃げてしまうために射程は短くなり、炸薬量などが劣る(八九式榴弾は150g、十年式手榴弾は50g)ために威力も劣る。
手榴弾そのままでは使用できないが、手榴弾下部に発射薬を納めた装薬筒(要はアダプターを兼ねている)を取り付けることで擲弾筒で使用可能となる。
この擲弾筒を変な方向で有名にしてしまったのが、この兵器を鹵獲し、使用した米兵の悲劇である。
ゲリラ戦で日本兵の擲弾筒に大いに苦しめられた米兵は、鹵獲した擲弾筒をそのまま日本兵に使用するのであった。
弾薬の限られた戦場で、敵の武器を回収して自分達の武器として使う。
ここまではよくある話なのである。そう、ここまでは。
実際、後述の通り米軍でも鹵獲兵器用のマニュアルも配布されていた。
米兵は地面に設置するはずの本擲弾筒を、何を思ったのか自分の膝の上に固定し、発射。
それをどうして膝なんかに乗せたのかと言うと、駐板(地面に乗せる部分)が湾曲しているのである。
そう、その湾曲度合いが見事太ももにジャストフィットするのであった。
この兵器は地面に乗せて運用する事を知らない米兵が、単に見た目でそう見えるからという理由で、ニー・モーター(膝撃ち迫撃砲)と名づけてしてしまい、実際膝の大腿部に乗せるとちょうどいい発射角になるというのもまた膝撃ちのイメージ定着を加速させた。
実際にこの命名は半分ジョークのようなものだったのだが、それが名前ばかり先行したために起きた悲劇である。
実際、この武器の根元が湾曲しているのは、岩のようなごつごつした面に乗せても安定させやすかったから(ほかにも発射時の圧力分散にも適していた)だそうだが、それを見事に勘違いした米兵が膝を破壊。
おかげで日本兵の膝は鉄で出来ているなんてうわさがまことしやかに流れたそうだが、そんなことあるわけない。しかし、ニー・モーターの名と米兵の悲劇とともに、八九式重擲弾筒は後世に語り継がれるのであった。
大体、小銃弾どころではない重さの擲弾を飛ばす擲弾筒の反動を受けたら、大腿骨のような太い骨だろうが何だろうが、だいたいどんな骨でも折れるか砕けると、撃つ前に想像できそうなものだが……
なお、発射時に駐退して地面にめり込み、毎回位置を合わせなおさなければならないことから、この湾曲部に丸めた毛布や丸太などを咬ませて使うことも考えられている。
凍っていたりぬかるんでいるなど、地面の状態が悪い際にも同様にかませて安定させることが行われている。
ちなみに、分かっているのか知らなかったのかは不明だが、ドヤ顔で膝の上に擲弾筒を構えている米兵の写真なんかが実際にあったりする。
なお、本擲弾筒を鹵獲した場合の米軍マニュアルには膝に乗せるなと書かれるほどであったため、それなりに膝を破壊した米兵が多かったようだ。
その後米兵が「膝で迫撃砲を撃ってしまってな」と言ったかどうかは定かではない。
鹵獲した本擲弾筒を米軍が使用したのは前述のとおりだが、その性能は目を引くものが合ったようで、同様のものを開発する提案もあったが、バズーカ砲で代用されることとなった。*
M79グレネードランチャーに影響を与えたという都市伝説があるが、砲身に肩撃ちに適した木銃床を取り付けるというM79の形状は、一般的な迫撃砲に近い八九式よりはどちらかというとハンドモーター(hand mortar。18世紀頃まで用いられた兵器で、ざっくり言うと火縄銃と同様の銃床にぶっとい砲身を据え付けて擲弾を撃てるようにしたもの)に酷似しており、役割は似ているが別系統の武器となっている。
なお、米軍のM224 60mm迫撃砲には個人携行モードと呼ばれる運用形態が存在する。二脚を外し長方形の底盤を装着したその姿はまさに八九式そのものであり、手で角度を変えつつ目分量で照準する点もそっくりである(とはいえ、前述のSBMLも運用はほぼ似たようなものなのだが)。八九式重擲弾筒の系譜は、むしろこちらに受け継がれたと言ってもいいかもしれない。
また、日中戦争で対峙した中華民国や中華人民共和国では歩兵装備としてけっこう評価されていたらしく、これのコピー品が生産されたほか、改修型が生産されている。