概要
10代後半には京都にて狩野派の流れを引く石田幽汀に入門する。
20代の頃にはオランダ渡来の眼鏡絵との出会いで強烈な刺激を受けた。
その遠近法や彩色法から「写生」を重視したアレンジを日本画に取り入れ、独自の「付立て」筆法を確立し、富裕な町人に好まれた。
著名な弟子に呉春、長沢芦雪、森徹山、源琦などがおり、この応挙を祖とする一派は「円山・四条派(もしくは単に円山派)」と呼ばれるようになる。
1766年から「応挙」を名乗り始める。「銭舜挙(中国の宋末-元初期の画家)に応ずる」という意味が込められている。
この頃から円満院門主の祐常の庇護を受けるようになる。