概要
1974年12月24日生まれ。
ネタ作り担当、立ち位置は向かって左。
鹿児島県出水市出身、鹿児島県立出水工業高等学校卒業。
1998年に相方の黒田俊之と共にお笑いコンビ「ダブルブッキング」を結成。
主に本題とは違うところが気になっちゃう話というコントをネタにしている。
箱男時代
実は川本本人は若い頃は極度の人嫌いかつ捻くれを持つ性格で、他人をまともに信用できず、寧ろ人間の悪い部分ばかり見続け何かしらに暴言や悪口ばかり吐き続け、相方ですら信用出来ない程荒んでいた。
そんな矢先、コンビ結成から1年経った1998年、テレビ番組電波少年の企画に参加。その企画名は名付けて電波少年的箱男というもので、縦横高さ1.2mの正方形の箱の中に入り、鹿児島県の佐多岬から東京までの約1500キロメートルを箱を押してもらうという、人の善意に頼るというものだった。なお、ゴールまで箱のふたは外から溶接され、箱から出ることは一切できない。箱は簡易トイレつきだが、外部とのコミュニケーションは、箱にあるデジタル式のメッセージボードでしかできない。
これはプロデューサーの土屋敏男曰く、人間は悪い部分ばかりではなく、必ず良いところは必ずあるという人間心理の善悪を学び、川本に他人を信用できる人間に立ち直らさせたいという所謂更生企画だった。
当初、川本はこの企画の参加に躊躇していたが、次第にこれで本当に人間嫌いが治ると期待し、参加を決意する。
だが、いざ企画が始まればどんな援助を受けても礼を言わず、それどころか援助内容に対する不満や罵倒の言葉しか言わず、川元に対する視聴者の評判は悪く、「ビタミン剤」と称して下剤を飲まされたり、ゴロツキらによって人がいない山奥や不法投棄場にに箱を置き去りにする者が現れるなどの嫌がらせが続いた。それに乗じるかの様に川本の悪態は更に悪化し、子供や年寄りに対しても「帰れ!」などと罵倒し続け、自分に嫌がらせをさせた連中に対しても「✖︎✖︎からな!」と決して言ってはいけない言葉まで平然に吐くまで劣悪化し、終いにはこの企画を考えた土屋プロデューサーらに対して、「貢がせてやります」という卑猥な暴言を吐き、この発言で土屋本人をも激怒させた。
そんな荒んだ様子に心配した相方である黒田は、自らの意思でTプロデューサーに拉致されてそのまま箱に入れられ、川本が入っている箱があるところまで連れていかれた。黒田は川本と箱同士ながらも久しぶりの再会をしたものの、応援するどころか川本の態度に癪に触り、結局互いにメッセージボードを使った罵倒合戦だけに終わり、黒田は東京へと帰って行ってしまう。
それでも、川本は少しばかりは他人を信用しようとしかけるも、ある日、箱を訪れた女性が川本から買い物を頼まれ、ガソリンスタンドの看板用のバイト代として得た5000円を受け取るが、結局女性に持ち逃げされ、結局再び心を閉ざしてしまう。
この荒み切った環境状況から川本本人もギブアップを宣告するも、土屋プロデューサーは彼の要請を却下した。それは土屋曰く、上記の様な「川本自身の歪みきった心を叩き直すため」、「芸能界の厳しさを叩き込み、サバイバル精神とハングリー精神を身につけさせるため」、そして第一に「素直に御礼が出来る様な他人を信頼できる人間にさせるため」でもあり、このまま川本を外へ野放しにさせてしまうと碌でもない人間にさせてしまう危険性もある為、芸人としても人間としても更に成長させる為にあえて心を鬼にしたのだ。
そんな生活が数ヶ月が経過したある日、川元と交際中の女性が現れ、とある陸上競技場のトラックで箱を押し始めるこれに対して川本本人は何度も止める様に言い続けても、彼女は決して休む事なく箱を押し続けた、夕方から夜明けまで16時間も押し続けた。このひたすらに自分を信用し続ける彼女に対して、企画が始まって以来初めて「ありがとう」の御礼の言葉が出た。
その瞬間、川本に初めて他人を信用する心が芽生えたと確信したスタッフはこの時点でゴールとみなし、それまで開くことのなかった箱が遠隔リモコン操作で開き、企画は終了した。
なお、本来のゴールは鹿児島県の佐多岬から東京までの約1500キロメートルの移動を変更し、箱を公道からトラックに積んで移動した上で私有地に設置し、私有地内を1500km分移動しなければならなかったのだが、この時点で川本本人は既に衰弱し切っており、同時今までの悪行を心底反省した上、初めて他人に礼を言った事から、もはやこれ以上彼を矯正する必要はないと判断された為だった。
後日、スタッフ宛に川本本人から手紙が送られ、「あの企画で自分は様々なことを学び、人間の悪いところは勿論人間の良いところや善良をたくさん見て経験し、自分も色々成長した。しかし、まだ自分は完全に他人を信用し切ってはいないが、他人の悪いところばかりではなく良いところ等あらゆる視点から見る様に変わった。とにかくこの半年間はあらゆる他人と巡り合って楽しかった」と川本の性格が少しばかり変わって行ったことを確認できた。
そして、徐々に川本本人も事務所の先輩でもあるさまぁ〜ずやバナナマンにも打ち解ける様になり、今まで尖っていた性格も次第に軟化し、他事務所の芸人とも交友を持つ様になっていった。
その甲斐あってか、笑いの金メダル、爆笑レッドカーペット、アメトーーク等のバラエティ番組にも出演する様になり、更には単独ライブも開催するなど芸人としても成長して行った。そして、2014年にはIPPONグランプリにも出場し、チェアマンの松本人志からは絶賛された。
現在は芸人活動の傍ら、短編監督や脚本家も務め、自ら製作した作品ふ海外33カ国で135の賞を受け、「日本で最も多く海外の映画賞を受賞した短編映画」に認定された。