生没年 1509(永正6)年~1600(慶長5)年
肥前の国人・龍造寺胤和の娘。
概要
しかし1545(天文14)年、周家や義父の家純らが、馬場頼周によって謀殺される事件が起きる。
家中強化の為、1556(弘治2)年に家臣の鍋島清房の後妻として嫁ぐ。清房の正室は周家の姉妹であったが1548(天文17)年に亡くなっており、その子である信生(後の直茂)を見込んで、隆信との関係を強化させる(従兄弟と義兄弟を兼ねる)ことを目論んだとされる。
1570(元亀元)年の大友義鎮(宗麟)による肥前侵攻(今山の戦い)の時には、戦意が低下していた隆信や信生ら龍造寺軍を叱咤し、信生に夜討ちを指示し大友軍を壊乱させることができた。
その後1584(天正12)年の冲田畷の戦いで隆信が戦死し、実権が直茂に移っていく中でも存在感を示し続けた。