「おいら岬の灯台守は~♪」
(映画「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌、1番より)
概要
灯台守の仕事は、航路標識としての灯台が正常に機能するよう、無人化されていない灯台に設けられた航路標識事務所の職員として維持管理に当たることである。このほかに、灯浮標、浮標、防波堤灯台、導灯(安全な水路へ導く航路標識)、照射灯(暗礁を照らす航路標識)、霧笛(サイレンなどで音を出し、灯台などの存在を知らせる。霧信号とも。日本では2006・平成19年、全廃)、無線方位信号(電波標識)なども併設されている場合は維持管理、運用していた。
日本では、1869(明治2)年から紆余曲折を経て、2006(平成19)年12月5日に長崎県五島列島の女島灯台が動力の近代化改修によって無人化されたことで、この任務に就く者は皆無となった。
たいていの有人灯台の近くには、灯台守が生活する官舎(家)が建てられていることが多かった。というのは、灯台を運用するためには人が常駐し、維持管理を行わなければならない時代が長らく続き、前述の各種航路標識を動かすにも人が必要だったからと、灯台の所在地は交通の便が悪かったから、単身赴任も不可能という事情もあった。
日本でも、人も住めない無人島に建てた大分県の水の子島灯台、静岡県の神子元島灯台の滞在管理は例外…という時代が長らく続いた。
灯台守しか住んでいないような(=それまでは無人島だった)離島の灯台へ派遣される国家公務員の灯台守は国家の領土主権の守護者でもある。警察任務、防衛任務を担当しない文官相当の職身分であっても、そこへ国家公務員が常駐することは国家の領土主権を主張する根拠となる存在である他、侵略者が上陸してきたときは海上警察を担う組織、海上防衛・領土防衛を担う組織への通報が義務付けられており、世界的に見れば上陸してきた侵略者との戦闘に巻き込まれ、訣別の電文を打電して命を落とした灯台守も少なくない。
日本も例外ではない。
第二次大戦のアジア・太平洋地域での戦火が拡大し、日米開戦となった翌昭和17(1942)年には、立地条件から海軍省と逓信省で協定を締結し、敵機・敵艦の監視通報任務を行うこととなり、内務省(警視庁と道府県警察部)所管の監視哨、漁船改造の特設監視艇隊とともに監視にあたった。さらに連合国軍(主力はアメリカ軍)の交通妨害、輸送航路破壊目的で、艦載機などによる機銃掃射・小型爆弾の爆撃が昭和19(1944)年から開始され、灯台員は防空本部に対し敵機の情報を監視するとともに打電しなければならず、昭和20年8月15日時点で、沖縄戦の戦火に巻き込まれた伊江島の職員3名と家族4名の全滅に加え、灯台の機能を壊滅させ、建物があるだけやっと…という執拗な機銃掃射によって殉職した、青森県尻屋崎灯台の村尾常人灯台長以下、5名もの人命が失われている。
日本の場合は、帝国海軍のあった大日本帝国時代(明治1・1868年~昭和20・1945年)までは、領海・領土維持は軍の仕事で、灯台といった航路標識を管理する灯台員は文官身分、運輸通信行政も所管した旧逓信省の一部、灯台部に所属する判任官「航路標識技手」、奏任官「航路標識技師」なので、昭和23(1948)年の海上保安庁成立後も旧海軍の各種艦艇乗組員出身者(とはいえ旧高等商船学校などの予備士官で、「職業軍人」の江田島の兵学校出身者は連合国軍総司令部命で排斥された)の多い巡視船部門、海軍から所属する上位組織の名と部門が変わった、海図製作の水路部(現海洋情報部。こちらも旧海軍が所管していたが、文官が多数派で、武官も水路部長など部課長が指揮権のある兵科で、過半数は戦闘時指揮権がない各部。)とは別格で、職員の互助組織・OB 会も別個、一般社団法人灯光会の時代が長らく続いた。
有人管理が主体だった時代から、「「灯台守」を「灯台を維持管理する人」と同義語で使わないでほしい。差別称だ。」という声は長らく上がっており、『喜びも悲しみも幾歳月』でも 「灯台員」と主人公・有沢四郎が言っている。(新人の水出技手が、「徴兵逃れで灯台守になった」と言われ、地元、新潟佐渡島弾崎灯台付近の若者と乱闘になったあとのシーンなど。)
『喜びも悲しみも幾歳月』封切後は、「灯台守=『喜びも悲しみも幾歳月』の有沢四郎一家」という図式が成立した、と言っても過言ではない。
とはいえ、現役の灯台員も「尤も『海務院航路標識技手』では歌にも俳句にもならないだらうから、文芸や何かに使用することは結構だ」(池田孝著『灯台』、1942年)と言っており、冒頭の同名映画の主題歌「喜びも悲しみも幾歳月」の1番は、灯台守の自称であり差支えないし、他の言葉に置き換えられない。
昭和23(1948)年の海上保安庁成立後は、灯台を管理する部門は「灯台部」となり、現在は海上保安官の階級もある特別職公務員で、舞鶴の海上保安学校、呉の海上保安大学校を出て、各地の海上保安本部交通課、海上交通センターなどに配置される。灯台をはじめとした航路標識の管理に加え、東京湾、瀬戸内海など狭く混雑する海域での船舶の航行管制、船同士の衝突といった海上での交通事故の初動対応、海を使う行事や漁法に対する許認可…と、警察の交通課に相当する部署になっている。
海難事故で窮地に立たされている人を救う特殊救難隊ばかりが取り上げられ、突出して漫画、テレビドラマ、映画にもなったが、事故を起こしてから、事故が起こってから騒いでも手遅れだ。
安全な航海ができるようにする、「海の地図」の海図を作る海洋情報部と、時に自らの命を懸け、家族ともども「海の道しるべ」である灯台の灯を守った灯台員、「灯台守」の仕事が重要なのは、職名や所属する部門や上位機構の名前が変わっても、同じである。
灯台守に関する重要なことがら
灯台補給船
離島に建設された灯台へ物資を運ぶ船。
南極観測船の宗谷も、この任に就いていた時期があった。
エルトゥールル号遭難事件
エルトゥールル号遭難事件で海へ放り出されて岸にたどり着いた乗組員と最初にコンタクトを取ったのは、樫野崎灯台に詰めていた灯台守であった。
アイダ・ルイス
アメリカ合衆国で知らない人はいないと思われるロードアイランド州出身の女性の灯台守。
灯台守になったきっかけは、16歳のとき、ロードアイランド州ニューポート沖にあるライム・ロックという島にある灯台の灯台守をしていた父親が後遺症を残す病に罹ったことで、実質的に仕事を継いだことにある。
灯台守の仕事を継いだ直後は、灯台守の仕事をした上、毎日兄妹をボートで灯台のあるライム・ロックからニューポートの街まで送迎をしていたとのこと。
その後、連邦政府から正式に灯台守に任命され、32年間にわたってライム・ロックの灯台で勤務した。
近くの海で遭難者があれば危険を冒してでも可能な限りボートを出して人命救助に尽くしたため、連邦政府から勲章を授与され、地元の有志から新品のボートをもらっている。
アイダが亡くなった時、ニューポートの港に停泊していたすべての船が弔意の鐘を鳴らし、ニューポートの街のすべての旗が半旗にされるほどの人気者であった。
アイダの誕生から175年目の2月25日には、Googleのトップページで、灯台守になって、人命救助に手を尽くし、勲章を授与されるまでの経緯が、イラストによるスライドショーになった。