白鳥由栄
しらとりよしえ
明治40年生まれ、昭和54年没。
「昭和の脱獄王」で有名になった受刑者で、生涯で計4回の脱獄を繰り返した。
豆腐屋の養子だったが、破落戸となり放蕩仲間と強盗殺人を犯したため投獄される。当時の受刑者に対する扱いが酷かったため、これが脱獄を繰り返すきっかけとなる。
1979年、心筋梗塞で世を去った。71歳没。白鳥は無縁仏として供養されそうになるが、白鳥が仮出所した際に近所に住んでおり仲良くしていた当時子供だった女性が引き取り、埋葬された。
白鳥は4度の脱獄のみならず強盗殺人と傷害致死を犯した重罪人である。
しかし、その知恵を働かせた脱獄方法や、主張通りに脱獄後は積極的に凶悪犯罪を犯すようなこともなく、刑務所内でも人道的に扱われれば模範囚として過ごし、出所後も一市民として暮らした好漢ぶりが日頃傲慢な官憲(特に戦前はエリート意識が甚だしかった)に反感を抱いていた民衆の心をつかんだことで、現在でも一種のアンチヒーロー的な人気を誇る。
青森刑務所
劣悪な刑務所の待遇に抗議するも、逆に懲罰房に入れられ脱獄を決意。1936年 手桶の箍で手製の合鍵を作り、開錠して脱獄。(1回目の脱獄。白鳥28歳) だが、3日後に捕まり「逃走」の罪が加わり、無期懲役となる。1937年4月、白鳥は宮城刑務所を経て小菅刑務所(現:東京拘置所)に移監される。小菅刑務所では普通の受刑者としての扱いを受けていたため、脱獄を計画しなかった。
秋田刑務所
1941年10月、戦時罪因移送令に基づき秋田刑務所に移監される。脱獄したため特別房入りの待遇であった。高さ3メートルの牢屋で天窓があるだけである。 あまりの寒さに防寒着を要求するものの拒否され、脱獄を決意。この時看守に低い声で「脱獄してやる」と宣言し、看守を震え上がらせた(理由は後述)。
収監された鎮静房の天窓の釘が腐りかけていることに気づき、部屋の隅を使って天井に登ることを思いつき、看守が寝静まってから練習をした。 窓枠のブリキ片と古釘を見つけ、釘でブリキ板の縁をギザビザにして即席ノコギリを作り、鉄格子の周囲を切り始める。 看守の交代時間を狙い、一日たったの10分間だけの鉄格子の周囲を切り取る作業を行った。切り取りに成功すると、脱獄の日を待つ。
1942年6月、暴風雨に紛れて鉄格子を外して天井より脱獄。刑務所の工場の丸太を足場にして壁を乗り越えた。(2回目の脱獄。白鳥34歳)
網走刑務所
3か月後、酷い仕打ちの数々を訴えるため小菅刑務所で世話になった看守長の小林良蔵の元を訪れ、自首した。収監の期間はさらに延長され、難攻不落と言われる網走刑務所に移監。凶悪犯専用の特別房に入れられる。時折、看守の態度に腹を立てて、手錠を力任せに引きちぎった。そのため、真冬でも夏物の単衣一枚の着用、夏には逆に厚着をさせられるという虐待を受ける。手錠や足錠はほとんど外してくれず、蛆が湧いてくる。この対応に死を覚悟し、脱獄を決意。
味噌汁の塩分で手錠と視察孔の釘を錆びさせた後に外し(味噌汁を視察孔の釘に吹き掛ける行為を一年間続けた)、関節を脱臼させ、監獄の天窓を頭突きで破り、煙突を引き抜いて脱獄。(3回目の脱獄。白鳥37歳)
札幌刑務所
その後終戦まで身を潜めるが、終戦後畑泥棒と間違えられ農家に袋だたきにさてしまう。白鳥は「盗んでいないから荷物を調べてくれ」と懇願するが、聞き入れられるどころかさらに殴られ続けたことに耐えかねて逆に相手を殺害。裁判で白鳥は自衛行為であったと主張したが、聞き入れられず札幌地裁から死刑判決が出たために脱獄を決意。
過去3回も脱獄したことで白鳥だけに特別房が用意され、扉・窓・鉄格子・採光窓など全て補強され 、看守6人1組で厳重に監視される中、床下からトンネルを掘り、脱獄。視線を上に向けて誤魔化しながら隠し持った金属片でノコギリを作り、床板を切断。食器で穴を掘った。 1947年3月穴をくぐり、外に出る。雪があったために壁を乗り越えられて逃走。(4回目の脱獄。白鳥39歳)
- 凄まじい腕力の持ち主で、米俵を両手に持つことができ、煙突を素手で引き抜いたり手錠を引きちぎったりしたこともあった。
- 1日に120キロ走れる持久力を持つ。
- 全身の関節を自由に外すことができた(先天性か後天性かは不明)。頭部が入れる穴があれば、関節を外して潜り抜けられた。
- 足音を聞いておおよその勤務パターンと時間を計測する正確な体内時計を持っていた。
- 心理戦にも長けており、自分に意地悪をした看守に「やめてくださいよ、看守さんが当直の時に脱獄しますよ?」と脅すことで、本当に脱獄した責任を取るために減給などの処分を恐れた看守の監視が緩むのを狙った。そして報復を兼ねて実際にその看守が当直の時に脱獄する。
- 手のひらをタコの吸盤のように壁に吸い付かせてよじ登れる。