概要
ザ・ドリフターズがまだ桜井輝夫の影響を受けていた頃の元メンバー。サックス担当であり、眼鏡をかけている。
「ブーツブラザーズ」や「山下敬二郎とレッド・コースターズ」のメンバーとして活動していたが、1964年春の新制ドリフターズ再結成時に渡辺プロダクションから「ドリフのメンバーになって助けてやってくれないか」と説得されて加入。
実家は杉並区(1960年に区画整理された区域であり、当時の時点で既に杉並区だったが、それ以前は中野区だった)寺社「天狗不動尊」で、再結成したばかりで未だ売れていなかった頃のドリフターズは彼の実家を稽古場として使用していたという。
しかし、その翌年の1965年夏、真面目気質な性格からコメディに向いていないといういかりや長介の判断により、脱退を命じられて脱退。
再結成時のドリフターズの正式なメンバーの1人であり、当時のメンバーを撮影した集合写真にも他のメンバーと共に写っているが、脱退から長い年月が経過していて資料が散失しているため、情報がほとんど残っておらず、年齢はおろか、現在存命かどうかも一切不明である。
ただし、長年に亘って消息不明とされてきたが、1969年の企業名鑑に釣具製造販売会社「綱木商事」の取締役に「綱木文夫」の氏名が確認できる。
この綱木商事の所在地が上述する天狗不動尊の所在地と一致することから、天狗不動尊が実家の寺社であると推定され、その一族企業である綱木商事にて勤務したものと推定される。
また、ドリフの最年少の故・志村けんは綱木の脱退から3年後の1968年に入門し、1974年に正式にメンバーになっているため、志村と綱木の間に面識は無く、志村にとっては精々「過去にメンバーだった人物」として認識されていた程度と思われる。